しばらく前のことだが東京大学の養老孟司先生の「バカの壁」という本が話題になった。なにをバカの”壁”と思うのかはそれぞれの考え方によって違うだろうからここでは言及しない。それどころか今回は「バカの鑑」という全く違う話である。

「相手の気持ちになって考える」とはよく言われることだが、相手の中途半端に知っていると相手の気持ちを勘違いしてしまうことがある。どうせなら全く知らない人がいきなりやってきたらどう思うか、いや自分が相手のように行動した時にどう思ったかを素直に感じて言葉にしたほうが本当のところがわかったりするものだ。

例えば、旅館の経営者が「お客様は何をしてもらったら嬉しいのだろう」と考えると、旅館に到着した時に従業員全員が玄関で出迎えたら嬉しいんじゃないかなどと考えたりする。でもそれはたぶんトンチンカンなアイデアだ。もちろん従業員が一列に並んで挨拶してくれるのをみたら「凄い!」と驚くかもしれない。でも仮に自分がそんなことをされたら「料理長までこんなところに挨拶に出てきて今晩のご飯は大丈夫なのかな?」と不安に思うかもしれない。

そんなことより、最初に案内された部屋の中に1本の髪の毛が落ちていただけでも気分は台無しになる。豪華な旅館やホテルが好みの人もいれば素朴な田舎旅館が好きな人もいる。好みは様々だが誰でも掃除が行き届いていなかったりトイレットペーパーが切れているのは嫌だろう。自分がお客様につもりになって考えることと、実際にお客として訪れた時では感じることも思うことも全く違う。

おもてなしとして喜ばれるのはサプライズだ。それは誕生日ケーキや結婚記念日の追加デザートではない。もちろんそういったものが出されればちょっとは嬉しいかもしれない。でも本当のサプライズは、従業員の自分たちだけが経験して素晴らしいと思っているのに、お客様がまだ知らないものを紹介してみることだったりする。

北海道にトマムというリゾートがある。冬はスキーのお客様に人気のリゾートだが夏場にはなかなか人が呼べない。ホテルオークラが作ったリゾートだがバブル期のスキーブームが終わった途端に経営が破綻した。そんなリゾートで働いている索道(リフトやゴンドラ)の担当者は夏場の早朝にゴンドラの点検のためにお客より一足先に山の頂上に登らなくてはいけなかった。
ところがその時間に山頂から見る雲海の景色はそれは素晴らしいものだった。「なんとかこの景色をお客様に見てもらえないか」と考えた。そして社長に「山頂に朝食を取れるカフェを作ること」と「ロープウェイの早朝運転を始めること」を提案してお客様に「雲海を眺めながら朝食を食べませんか?」と提案した。まさかそんなところに素晴らしい景色があるとは知らなかったお客様にとても喜ばれた。そして今ではトマムの名物となっている。

冬の北海道だから寒さを体験してもらおうと独りよがりで企画した屋外の敷地に作った「氷のホテル」は、最初こそ話題を呼んだがすぐに飽きられてしまったという。「北海道だから寒さが喜ばれる」と勘違いした経営者の的外れな失敗だ。暖かい部屋から外の寒さや自然の脅威を眺めるのは楽しいが、ホテルに泊まってまで極限の寒さを楽しもうという人は少なかったのだ。そんな人はおそらくキャンプ場に向かう。自分が経験してみなければその時の気持ちや感動はわからない。

相手のことを知らないことは財産だ。相手のことがわからなければ最初から相手の気持ちになったつもりで予断を挟むことはない。その時はまず自分自身が経験したことを素直な気持ちで受け止められるはずだ。そんな時に何があったらより楽しいか、より快適なのかを身をもって感じることができる。こっちが勝手に相手の気持ちを勝手に想像して勘違いすることもない。勘違いしないためにまずバカになって、自分が相手と同じことをやってみなければその時の気持ちはわからない。知ったかぶるのは百害あって一利なしである。