鶏鳴狗盗という言葉があるそうだ。ボクも先日初めて聞いた。”鶏鳴”とは鶏の鳴き声であり”狗盗”とは泥棒のことだ。中国の秦の国にいた君子である。その人が政変に遭遇した時に、彼を救ったのは「泥棒のプロ」と「鶏の鳴き真似が上手い」二人だった。そこから「どんな才能がどんな状況で役に立つのかはわからない」というのがこの諺の教訓である。
だから「なんの役に立つのかわからない異能を持つ食客を厚遇しなさい」ということなのだろう。

普段の職場や生活で食っていくのにまず求められるのは「誰にでもできることができる」ということだ。まずは”人と同じこと”ができないことには食い扶持がない。良くも悪くもそのようにこの社会は出来上がっている。それはつまり「英語ができます」「エクセルとパワーポイントが使えます」「24時間働けます」と言った誓約をしないと仕事にありつけないということだ。

だが、「みんなができることができる」ということはすなわち「いくらでも替えがきく」ということに他ならない。それはその人たちの雇用条件は限りなく引き下げることが可能だということを意味する。同じ仕事ができるなら一番安い賃金の安い労働力が「よい労働者である」というのが経営者のロジックだ。誰にでもできることができる人はアルバイトなどでも便利使いされるがいくらでも替えがきくから最後は使い捨てられる。

もう今の日本では「余人をもって替えがたい」などと言ってもらえるのは国会に引きずり出されそうになった検事総長くらいのもので、もはやそんな食客に敬意を払う習慣もなくなってしまった。

しかしいくらでも替えがきくような人だけで成り立っているような組織が「鶏鳴狗盗」的なピンチに遭遇した時、その危機を生き延びることができるのか甚だ疑問なのである。