日本の夏は広島・長崎の原爆の日と終戦記念日だ。高校球児達には申し訳ないが断じて甲子園や花火大会ではない。そういう意味で今年の夏は巷のバカ騒ぎの多くが中止になって、日本が過去に味わってきた悲惨な経験と悲しみ、平和への願いを新たにするいい機会かもしれない。

毎年この時期になるとマスコミは原爆と終戦一色になる。最近の若い子の中には原爆も終戦も知らない子がいるのだという。最初にそれを聞いた時には和式トイレや公衆電話を使えない子供がいるということ以上に驚いた。

実際にボクたちだって「戦争を知らない子供たち」だったし(こんな歌も知らないんだろうなぁ)、ボクの親の世代でさえ終戦時には10歳かそこらの子供だったはずだ。戦後75年が経って、大人になってから終戦を迎えた人はもう少なくなってしまった。子供の戦争体験は学童疎開や戦後の食糧難くらいのものである。戦地に行って前線での体験をした人から話を聞く機会などほとんどなかった。

だから日本人の戦争体験はいつも”被害者”としての体験だ。いくら戦時中の当時だって10歳未満の年端もいかない子供が前線で敵兵を撃ち殺したり残虐行為をするわけがない。みんな内地にいて敵の爆撃を受けた人たちばかりだ。それでも空襲や原爆などで目の前で人の皮膚が溶け落ちて焼け死んでいくのを目の当たりにした子供だっていただろう。

今だったらちょっとしたことでもすぐに”心のケア”が取り沙汰されたりするが、そんな体験をした当時の子供がちゃんとした心のケアを受けていたとも思えない。だからといって今さらそのことをとやかく言うつもりはない。できないことはできないのだ。

今ではちょっとした辛い経験をすると、子供達はすぐに心のケアを受けて辛いことを忘れられるように大人が気を使うようになった。それ自体は決して悪いことではないしむしろ必要なことだ。しかし辛いことは忘れてしまえばそれでいいのか。忘れてしまってなかったことにすればそれでいいのか。

子供時代に戦中戦後を過ごした人の中には何年経ってもその凄惨な光景を忘れることができずに、何十年経った今でも悪夢で目が覚めてしまう人もいるという。そんな忘れられないほどの辛い経験を通り一遍の心のケアで忘れてしまっていいものなのだろうか。もちろん辛い想いに心が押しつぶされてしまっては意味がないが、それでも生き抜いてきた人がいる。

人は辛い経験を重ねることで次第に心を強くしていく。辛いことをすぐに忘れてしまっては、いや忘れさせようとすることで心は強くなりようもないのではないだろうか。だからボクはどんな些細なことにも心のケアが必要だという考えには手放しで賛成することはできない。

人生には辛いことがたくさんある(と思う)。そしてそのほとんどは避けて通ることができない。だからこそそれに耐えるだけの力が必要だ。体も心も鍛えるには多少の無理や負荷も必要だ。ノンベンダラリとしてぼーっと生きていては決して鍛えることはできない。それを鍛えるのは辛い経験なのではないだろうかと思っている。