25年以上前にジュラシック・パークという映画が話題になった。その後ロスト・ワールドなどのシリーズ作も作られ、つい最近まで製作は続いている。ジュラシック・パークとはその名の通り「ジュラ紀の公園」という意味で現代に蘇らせた恐竜を飼育・展示した公園でそこで起きる様々なトラブルがいちばんの見どころだ。しかし”ジュラ紀の”と謳う割には登場するのはほとんどがその後に続く白亜紀の恐竜がほとんどだ。ジュラ紀は2億年から1億5千万年前の時代だが一方の白亜紀は1億5千万年前から6000万年ほど前の時代だと言われている。

映画の中で度々登場するティラノサウルスやヴェロキラプトル(ドロマエオサウルス)、トリケラトプスは白亜紀の代表的な恐竜である。もっとも人間が人工的に蘇らせた設定なのだから名前などどうでもいいにだろう。北米大陸あたりにいたとされるティラノサウルスとユーラシア大陸にいたとされているヴェロキラプトルが戦うシーンなどもあってちょっと前までの動物園の様相だ。

映画の中ではトカゲや象のような皮膚をした恐竜がほとんどだが最近ではテレビなどに登場してくる恐竜にはモフモフと体毛の生えたカラフルな恐竜も多い。白亜紀が終わって新生代に入る頃に恐竜の一部から鳥類に変化したとする説が有力だから、恐竜の末期には羽毛などが生えた恐竜がいたのかもしれないがボクはよく知らない。

先日テレビを見ていたらこの体毛の色の違いは「オスとメスの区別をつけるものだった」と説明していた。しかし土の中から発掘された化石に色が着いているわけはなくあくまで想像に過ぎない。さらにCGで恐竜の求愛ダンスまで見せていたが化石で当時の動物の動きはわからないのだから、これはさらに飛躍した想像だ。恐らくはその後の時代に登場した鳥類の中で現在も生息している種の動きを参考にして想像したのだろう。

説明では、恐竜たちはこんな求愛行動をとったとかこの体色は同じ種類の恐竜同士が相手の性別を見分けるためだったと見てきたように言っていたがそんなことは誰にもわからないし、現在生息している動物にも外見からでは雌雄の区別がつかない種はゴマンといる。それを子供も見ている番組の中でほとんどが妄想にすぎないものを「そうだった」と断定してしまうのはいかがなものだろうか。「こんなことがあったのかもしれないが今でもわかっていない」ではいけないのだろうか。

ボクたちが子供の頃、月のクレーターは火山の噴火の跡なのか隕石がぶつかった跡なのかはわからないと言われていたし図鑑にもそう書いてあった。今ではその後の探査や研究の結果、そのほとんどが隕石の激突痕だとわかってきた。でも”なんだかわからない”ものを「知りたい!」と思って勉強して研究者になって解明したいという力の原動力になったとは考えないのだろうか。

子供の頃、恐竜は象やサイのような体色で変温動物だと言われていた。しかし今では研究の結果「どうやら違うかもしれない」と言われている。「もうわかってます」というものを「いや違うかもしれない」と考えることにはかなりの抵抗勢力と常識を疑って覆すための不屈の精神が必要だろう。メディアの製作者は、確かなことなどほどんどわからないうちに根拠すら曖昧な論文を持ち出して決めつけて子供の頭に刷り込んでしまうのは如何なものだろうか。

科学はわからないからこそ面白い。宇宙の果てには何があるのか、光の速さで飛ぶロケットにまたがって宇宙を旅したらどういう景色が見えるのだろうかと好奇心と想像力で探求しようとするから科学は楽しくなる。色々な説を持ち出してくるのは好奇心をくすぐるが、それを簡単に信じて決めつけてしまうようなやり方には疑問を覚える。わかっていくことを覚えるだけの教育はもうたくさんだ。