最近話題になっている「13歳からのアート思考」という本がある。タイトルを見ると13歳の子供にアートのセンスを身につけさせるためにママたちを啓蒙するためのハウツー本のようにも見える。でもその中身を読んでみればわかることだが内容はその逆だ。言ってみれば頭がコチコチに硬くなった大人に向けた皮肉を綴った本にも思える。いやそんな大人を柔らか頭にするための啓蒙書なのかもしれない。

モネの「睡蓮」という絵をご存知だろうか。戦前、松方コレクションとして海外に保管されていたものが大掛かりな修復を経て国立西洋美術館で公開されるというので話題になった連作の絵である。

ある日、岡山県にある大原美術館で公開されていたその絵を見て4歳の男の子が「カエルがいる」と言ったのだという。実はその絵の中にカエルの姿は一つも描かれていない。学芸員は当然その絵の中にカエルがないことは知っていたが「えっ、どこにいるの?」と聞き返したらその男の子は「いま潜ってる」と答えたのだという。

ピカソは言っている。「すべての子どもはアーティストである。問題なのは、どうすれば大人になったときにもアーティストのままでいられるかだ」と。

あなたは美術館で作品を見るとき、作品を鑑賞している時間とその解説文を読む時間のどちらが長いだろうか。ボクはそのほとんどの時間を解説を読むことに充てているように思う。実物の絵などパッと一瞬見ただけでその視線は解説文に釘付けだ。いつ誰がどこで描いた絵で作者の意図はどこにあったのかを知ったらそれですべて解ったような気になっている。そして肝心の絵などほとんど見ていないのだ。これを絵画鑑賞と呼んでいいものだろうか。

絵を見る人は皆、作者の意図を言いあてようとしている。なぜこんな構図なのか、色使いには何の意味があったのか、その時代背景を重ねて「作者はこんな気持ちでその絵を描いたに違いない」。そして著名な美術家の解説を読んで「当たった!」などと思うのだ。

音楽ならそんなことはしないだろう。ベートーベンは交響曲の出だしについて「運命は如此く扉を叩く」と言ったとか言わないとか…。嘘でもそんな話を聞かされれば何らかのイメージを持ってしまうが、普通にクラッシックを聴くときにそんなことを思うことはない。心地よいハーモニーだとか迫力のあるリズムだと思うことはあっても作者が何を想ってそのメロディを作曲したのかなど考えたりはしない。それは音楽には形がないからだ、と著者は言う。

ところが美術になると途端にそうなってしまう。自分がどう感じているのかよりも「何が正しい見方なのか」ばかりを考えてしまう。中学生の頃から美術の授業でそんな勉強ばかりをしてきたからだ。絵を見て作者の名前と時代を覚えて「印象派の代表的な画家」という属性と結びつけて記憶してテストに備える。

正解だけを求めようとする教育、テストをやって点数をつけて合格と不合格に振り分けるための教育ばかりに学生だった私たちは力を注いだ。それは人生の序盤では確かに大切な能力かもしれないが二十歳を過ぎた頃からそれはただの足枷になる。もちろん受験勉強の数学や理科のように正解だけを求めることに意味のある勉強もある。しかし芸術に正解は一つではない。

僕たちが大人になってからやってきた”鑑賞”とはこの本の中でも述べられているように、作者が伝えたかったことを正確に読み取ることだと思っていたのではないだろうか。そしてそのことばかりを考えてきた。

写実的で細かな”写真のような”絵を見ると「上手な絵だなぁ」と思う。それは大人にとって普通のことだ。そういう絵が上手い絵だと教えられてきたからだ。だからピカソやムンクの絵を見てもその良さはわからない。そして「現代アートって解らないんですよねぇ」などと口に出す。ボクも同じだ。

落語は話術である。細かい描写の映像はない。落語家の噺からイメージを膨らませて情景を想像する。自分の想像力を働かせて頭の中にその様子を描写する。頭の中に書かれた絵は人それぞれに異なっているに違いない。そしてそのどれが正解ということはない。聴く人が自由に想像できる緩さを残すことが奥深さを残すことにつながる。

写真はその有様を忠実に写し取ることにその使命がある。中世の絵画は写真の発明とともにその使命のほとんどを終えた。

この本を読んでいてピカソの絵がどうして写実的でないのかその訳がちょっとわかったような気がする。

現代芸術家・アンディ・ウォーホルの作品「ブリロ・ボックス」やコンピュータゲームの「パックマン」がニューヨーク近代美術館に収蔵されているという。ウォーホールの作品は四角い箱に台所用洗剤のパッケージをコピーして積み重ねただけのものだ。パックマンはご存知の通りただのテレビゲームだった。それが「アート」として世界的にも有名な美術館に展示されている。

それまでミケランジェロやモナリザこそアート界の貴族だと思われていた中に「そんなものはアートとは呼ばない」と差別されていた庶民が踏み込んだ。アートの垣根の外側にいる平民が垣根の中に入った。いや垣根を取り払った人たちがそこにはいた。それがピカソでありウォーホールなどを始めとする人たちであり多くの無名なアーティストだった。

使い古しの男性トイレの小便器に「泉」というタイトルをつけたアーティストは、美術館に展示された中古のサイン入りの便器を恭しく眺める人々の姿までをアートとして表現したかったのではないだろうかとボクは思う。その滑稽さは別の世界でも度々見られる。

たぶんそれをアートだと感じる人がいればそれは紛れもないアートなのではないだろうか。だから人それぞれにアートだと思う対象は違う。そんな自由さがあることを思い出させてくれた本だった。他人の評価など自分がどう思うかには全く関係がない。アーティストとは「考える人」なのだと思う。