普段ならどれも同じように大切だと思っていることでも地震や台風などの大災害や経済危機のような大事件が起きた後の非常時になるとその重要性の度合いを見る目が変わってくる。それまではとても大切に思っていたものが急にどうでもいいものに思えたり、逆にどうでもいいと思って目にも留まらなかったものが急に重要に思えたりする。

オイルショックの時にはトイレットペーパーや洗濯洗剤が買い占められ、東日本大震災をはじめとする大地震や豪雨災害でもガソリンやトイレットペーパー、インスタント食品、災害時用トイレ、非常持ち出し袋、挙句は生鮮食料品まで買い占められた。先日も新型コロナ騒ぎを受けて米までがスーパーの棚から姿を消した。
普段ならあって当たり前、いつでもどこでも買えると思って見向きもしないものだ。米農家でもない一般の家庭がどうして100kgの米を自宅に備蓄するだろうか。100個ものトイレットペーパーを備蓄するだろうか。はっきり言って正気の沙汰ではない。

天変地異や非常事態になると生きるために本当は必要でないものから切り捨てられていく。「あなた、死にますよ」と言われれば大抵の人はやりたいことを諦める。その代わりに生きるためにどうしても必要だと自分が思っていることには必死になる。そういう意味では趣味や娯楽は虚業である。もっともトイレットペーパーなどなくても死ぬことはないがそれでも庶民は買い占めたがる。そういう見方をすると世の中の社会活動のほとんどが虚業になる。

最後は生きるために必要な、
・食べること
・生きるために危険を避けること
・子孫を残すこと
だけに限られる。

だから太平洋戦争の戦中・戦後には農家が異常に尊大で偉そうだったと聞く。一番大切な食料を持っているからだ。衣食住と言われるが食べることに比べれば衣(着るもの)や住(住むところ)は若干優先順位が低くなる。だから着物などを農家に持っていって食べ物と物々交換してもらったのだという。

だから楽に快適に過ごすことは二の次になる。安心して生きられることがわかってからの贅沢品というわけだ。戦争中には「贅沢は敵だ!」という掛け声とともに庶民は生きるために最低限の食料と衣類、粗末な家以外を所有することは許されなかったらしい。

しかし最初は生きるために必要のない贅沢品だと思っていても、なくなってみると生きるためにはやっぱり必要なものだったということもある。人間は会話をしたりリラックスをすることができなければ長くは我慢することもできないし生きていけないだろう。精神に異常をきたすのだ。ゲームやマンガだってある意味では必要なものになってくることもある。

スマホやSNSをはじめとしたコミュニケーション手段も今ではライフラインの一つとして位置付けられているが、おそらくスマホゲームができなくなると精神を病んでしまう人も多いのではないだろうか。学校が休校になり子供が外で走り回ることを制限されて精神がおかしくなってきたのを見てその重要性に初めて気づくようなことだってあるのだ。

そう考えると今社会に残っているものは何らかの形で人が生きるために必要とされているものだと言えなくもない。かつては「贅沢は敵だ」と言われた時代もあったが今ではそれらを全部奪ってしまったら生きていくことすら難しいということがわかってきたのではないだろうか。