一括りの文章の中ではセンテンスの終わりは「ですます調」や「である調」のどちらかに統一した方がスマートな文章になる、ということを知ったのは小学生の時だった。学校で書かされた作文や読書感想文が文集として印刷された時、家に持って帰ったらお袋に盗み見られて「汚い文章だねぇ」と酷評されたことに由来している。当時のボクは作文の語尾など全く気にしないで書き殴っていた。語尾が統一されていないと乱雑な印象になることに思い至らなかった。それからボクは作文の語尾を気にするようになった。

それからボクは作文を書くときにはデスマス調に統一するようにした。どこでどんな文章を書いても必ずデスマス調にした。でも時と場合によってはデスマス調が似合わない文章もあることに気づいてちょっと気にしていた。強い調子で意見を主張するときにデスマス調で書いていると断固とした自分の意思が伝わりにくいように感じていた。

高校生になる頃には一括りの文章の中では語尾を統一するが、別の場所で文章を書くときにはデアル調で書くことを覚えた。一連の文章でなければ語尾が変わったところでさして気になるものではないと思ったわけだ。

ところがしばらくしてボクは気付くことになる。ボクが書く文章を読むのはボクではない。ボクではない誰かがボクの文章を読み、その人がボクの文章をどのように感じるのかボクにわかるわけはない。文章は書き終わった瞬間にボクのものではなくなるのだということに気づいたのは高校を卒業する頃になってからのことである。

このコラムでも両方の語尾を使い分けている。いや別に意図して使い分けているわけではない。あまり深い意味なくなんとなく書き始めの勢いでどちらかに決まってくるだけだ。

その時の気分やテーマに対するフィーリングで書き分けているだけなのだが、書いているうちに語尾によって書く内容が微妙に変化してくることがある。最初はこう思っていたけど書き進むうちに「それはちょっと違うかなぁ」などと考え直してしまうのだ。

それはきっとそこに書いていることに確固たる意思があって考えていることを表現しているのではなく、そのときに思いついたことを語尾と相談しながら体裁が良くなるようにバランスを取っているだけなのかもしれない。でもそんなにたくさんの人が読んでいるわけでもないだろうからそれでいいや。