寺田寅彦という物理学者がいた。いやただの物理学者ではない。エッセイを書き、自然科学をわかりやすく解説した本も多く書く文学者でもあった。またある時には夏目漱石の小説「坊ちゃん」の登場人物のモデルにもなった有名人である。「 天災は忘れた頃に来る」とは寺田寅彦が生前にいつも口にしていた言葉だと言われているが、彼のエッセイの中にこのような言葉はないらしい。関東大震災を身をもって体験した彼は防災にも多大な尽力をしている。

地震や津波などの天災はしょっちゅう起きるわけではないから以前に起きたことを忘れてしまった頃になって起きるのだ、ということだろう。人間は忘れる動物である。次に地震や津波が必ずやってくることなど何十年も前からわかりきっていることだ。でも何十年も前に起きたことなど多くの人は忘れている。だから災害はいつも突然、予想もしないのに起きるわけだ。そんなことは誰もが分かっているのにいざ災害が起きると「まさかこんなことが起きるとは思いもしなかった」と言う。忘れているだけだ。

だから油断してはいけない。常に気を張って備えなければいけない、とはいうものの四六時中気を張り詰めていては身がもたない。だからせめて何かが起きたり起こりそうなときには冷静に過去の記録や記憶を呼び起こして対策しなければならない。東北の地震とその後の津波も今までに何度も三陸沿岸を襲った災害なのに、現地の人は地震の揺れが収まると地震はもう終わりだと思って逃げることをせず被害状況の確認や片づけを始めたのだと先日のテレビドキュメンタリーで報じていた。ずっと関東に住んでいるボクですら震源が三陸沖だと聞いたとたんに、津波が来たら大変なことになると反射的に思ったというのにだ。それまで何度も痛い目に遭って巨大な防潮堤まで作っていた人たちが事態を甘く見てしまったのだろう。

知識があって大地震の災害に遭っていなかったから彼らも冷静に考えられたのかもしれない。しかしそれは過ぎてしまった過去の記憶だ。地震の後に生まれた子供たちにとってあの地震と津波は”伝え聞いた話”であり身をもって体験していない。心が病んでしまうほどの恐ろしい体験は一生忘れることはないが、伝え聞いただけの話は簡単に忘れてしまう。聞いた話を自分に置き換えて疑似体験することをしなければすぐに過去の中に埋もれていく。

そんな寺田寅彦が今でも防災の心構えの中で思い出されるのは、彼ほど優れた人物がなかなか現れなかったからなのかもしれない。天才も忘れたころにやってくるのだ。