55年前の東京オリンピックでは当時アメリカの占領下にあった沖縄を含めて日本全国を聖火が走ったという。当時生まれて間もなかったボクがそんなことを知る由もないが、日本中が大いに盛り上がったイベントだったらしい。来年のオリンピックでも東日本大震災による原発事故の被災地である福島県をスタートして日本全国を聖火が巡るらしい。テレビでは半世紀以上も前に聖火リレーに参加した人や惜しくも参加できなかった人を尋ねて今の心境を聞くという特集が行われている。「あの時の感動をもう一度味わいたい」とか「55年前の雪辱を果たすために今度こそは」などという高齢者が何人もテレビの画面に(50年前なら”ブラウン管に”というところだが)登場している。そんな場面を見るにつけ”人の業というものはこんなにも深いのか”と呆れてもいる。

いやしくも聖火リレーを走ったことのある人は55年前にもオリンピックを楽しんだ人たちである。少なくとも1度は参加した人たちだ。新しく令和の時代を迎えたのだから今度は”今の若い世代に経験させてやろう”とは思えないのだろうか。やっぱり”自分がやりたい”、いや”自分が走らなければ気が済まない”のだろうか。

人は過去の栄光にしがみつこうとする。成功体験という言葉はあちこちで使われるが”失敗体験”とはあまり言われない。

人は実体験を積み重ねることで経験という財産を増やしていく。頭で、知識だけで知っているだけでは経験にはならない。自分の目で見て体で感じて初めて体験になる。しかし人が人生の中で体験できる機会は限られている。今回の聖火リレーなどは中々体験できるものではない。ボクは今回のオリンピック自体に特別な想い入れがあるわけではないが”参加する”という体験はしておくべきだろうと思ってインターネットでチケットを申し込んだ。結果的にはすべてハズレてしまったが、それでもボクは「2020東京オリンピックに参加した」という経験を得られたと感じている。あとは家のテレビで試合を観ることになるだろう。

自分が既に一度経験したのであれば、次の機会はまだ未経験の人に譲ろうとは思えないのだろうか。そんな機会を与えるのが年長者としての徳ではないのだろうか。ボクよりもはるかに長く生きてきた高齢者がそんなことにも考えが至らないのだろうか。いつまで”自分の人生だけ”にしがみつけば気が済むのだろうと、この一種の”老害”に少し暗い気持ちになっている。