最近ネットでも話題になっているが、自分のボキャブラリーが貧困だと思ってコンプレックスを感じている人が少なからずいるという。かくいうボクも子供の頃から語彙に乏しく、文章を書いたり人前で話すのは苦手だったし、家でも学校でも表現力に乏しいと言われていた。最近では「感情言葉選び辞典」「言葉の結びつき辞典」のような辞典が出版されていて語彙力を補うのに重宝されているという。ご多分に漏れずボクも「こんな感情を表すのにしっくり来る表現はなかったかな?」などと困ることがあって何冊も辞書を買ったことがあった。

久しぶりに出会った感情や懐かしく思い出される光景、そんな思いと同時に「こんな時には何と表現したら一番ふさわしいかな」と頭の中の記憶を総動員して言葉探しを始める。いくつかの似たような表現は思いつくもののピタリとハマる言葉が見つからない。あぁこんな時に類語を並べた辞書があればなぁ~。考えることはみな同じなのだろう。本屋で探してみるとそんな辞書がゴロゴロと出てきた。そのいくつかを見繕って買い求めたことがある。結論からいえば、思った通りにスッキリと解決してくれることはほとんどなかった。「そういう表現を探してるんじゃないんだよなぁ」といつも思う。

ボクは中高生の頃に小説やエッセイ、脚本から哲学書まで読んだ本の中に心を動かされる表現を見つけた時にはノートに抜き書きしていた。学校を卒業して仕事に就き、本を読む時間が少なくなってノートは増えなくなったが今でも数冊のノートが手元にある。今になって読み返してみると「どうしてあの頃はこんな言葉に感動したんだろう」と思うこともあるが、元は偉い作家や哲学者が書いた文章なのでその表現はさすがに素晴らしい。感情や状況を表現する言葉には今でも「なるほど!」と感じさせるものがある。

ボキャブラリが少ないから類語を辞書で調べて書くことが悪いことだとは思わない。とても感動したことを書くのにいつも「すっごく感動した」「めっちゃよかった」ばかりではその深さを他の人に伝えることは難しい。それを「心が震えるような感動」と表現するだけで、思わず体までブルブルと痙攣してしまうような驚きと熱くなった心を感じさせることができるかもしれない。しかし普段使わない言葉を使ってみたいというだけでは、子供が学校で新しい言葉を習った時と同じである。経験の伴わない心の通わない言葉になってしまわないだろうか。

いつも引き合いに出される話だが、さる外国人向けの日本語学校で行ったテストの回答例がある。設問は「あたかも」を使って文章を作りなさいというものだ。回答として挙げられていたのは

「冷蔵庫に生姜がアタカモしれない」

自分のものになっていない言葉を辞書を調べただけで書いても何も伝わらない。さしずめこのような珍回答に近いものになってしまうだろう。言葉は相手に伝わらなければ表現する意味がない。何も伝わらなくてもいいと思うのならそれは独りよがりだ。言葉はお互いに共通の認識があってこそ初めて意味を持つ。

街には「すっっっごく!」「めっっっちゃ!」と言っている人がたくさんいる。余計なお世話だがボキャブラリのない人だなと思う。形容詞や副詞の語彙が貧困だと会話も文章も貧層になって起伏がなく飽きてしまいがちだ。ただ意味が分かればいいのならそれでもいいだろう。しかしそれなのにSNSなどでは”誰も使わないような表現”を使いたがる人もいるのだそうだ。ちょっと言ってる意味がわからない。

ふさわしい表現とは新しく言葉を調べて書くのではない。辞書は、昔読んだ本などで見たシックリくる表現が思い出せない時に使うのだ。既に自分のものになっていたはずの表現がどうしても思い出せない時に使うのであって、自分さえ知らない言葉を一所懸命に調べて無理やり使うものではない。小学生ではないのだから。

語彙力は他の人からの影響を大きく受けている。本も読まず話もせずニュースも見ない人の語彙力が辞書を見るだけで急に高まると思ったら大間違いだ。