訳あって文章の校正作業をしている。校正とは誤字脱字や数字の間違い、意味の通らない文章などを修正する作業だ。かつて印刷会社にいたころもスケジュールが短かったり突発的な仕事が入ってきたときには校正に借り出されたりしていたので、知らない作業ではない。ただチマチマと赤ペンを使って細かい字で原稿を確認して修正を入れていくのはちょっと忍耐のいる作業だ。ただあまり考えることなく機械的に手を動かすことが多いので目以外の疲れは少ない。何かに煮詰まっているときにはちょっと気の休まる作業でもある。

仕事としてやる校正では通常、他の人が書いた原稿に対して赤(字)を入れるケースがほとんどだ。校正の赤字には一定のルールがあって、文字を挿入する記号、改行する記号、削除や訂正する記号。”ママ”(そのまま)という訂正を打ち消したり”トルツメ”といった文字や空白を消して後に続く文を前に詰める指示などもある。いずれにしても訂正した箇所を編集者に正しく伝えることが目的なのでわかりやすく誤解を受けないことが重要だ。

ところが自分で書いたものを自分で見直すということもある。誰でも経験していると思うが、試験の答案を見直すような場合は自分で書いた、答えた内容を自分でチェックしなければならない。学校生活の最初の頃には「答案用紙は必ず見直すこと」とは耳にタコができるくらいに言われたものだ。ということはそれだけ見直している生徒が少なかったのかもしれない。その理由は簡単だ。「自分の書いたものが間違っているはずがない」という思い込みである。

自分や自分のやったことにダメ出しをするのは難しい。絶対に正しく、合っていると思い込んでいるから見直す必要などないと思っている。実際に書いた時と同じ気持ちで見直しをしても間違いが見つかることは少ない。誤字脱字ですら見逃してしまう。それは見る方向が同じだからではないかと思う。同じ方向から見る景色はいつも同じだ。建物や木々の陰になっているところはいつも見えない。しかし自分の立ち位置を変えてちょっとでも違う場所から眺めてみると、今まで見えなかったものが浮かび上がってくる。

文章や絵でも同じことではないかと思う。書く立場と読む立場では文章に対する見方は違ってくる。描く立場と見る立場では絵画に対する思い入れは変わってくる。文章や絵画を創り出すときに制作者の頭の中にはすでに何らかのイメージができあがっている。しかし初めて文章を読んだり絵画を目にする人の頭にはそれらの創作物から得られる情報しかない。受け取る側はその情報を汲み取ってその向こうにあったであろう世界を想像するのだ。

既にあるものから何かを作り出すことと、作り出されたものから想像することはベクトルが逆とは言わないが感じることはかなり違っていると思う。そこから想像する景色はまったく違うものになっているかもしれない。

だから自分が書いたものから他の人が感じる印象を聞いてみることは創作者にとっていい意味でも悪い意味でも大きな刺激がある。絵画には校正という概念はないから難しいのだろうが、試しに自分が書いた文章を他の誰かに校正してもらってみるといい。誤字脱字はもちろんだが「ここは言っていることが分からない」などという自分が独りよがりで書いたことを指摘してもらえるかもしれない。そんな時に、人は自分のことを正しいと思っているんだなとつくづく感じるのだ。