4月1日に来月の改元に伴う新しい元号が発表された。最近ではこんなにも多くの国民の注目を浴びたイベントは珍しかったのではないかと思う。サッカーのワールドカップやオリンピックでもそれなりに盛り上がるが、そういうことにまったく興味のない人もいる。テレビのスポーツニュースでは、シーズンになると必ずプロ野球やJリーグが取り上げられる。もちろん熱心なファンも多いが、逆にまったく興味のない人もそれ以上に多い。それに比べると今回の新元号発表は、必ずしも”熱心”ではなかったが、大多数の日本人が多かれ少なかれ注目したのではないかと思っている。まぁそんなことはどうでもいい。

最近のでは「誰がその元号を考案したのか?」とマスコミがしつこく詮索している。一方の政府は「誰の案かは公表しない」と言っている。その是非は別として、考案者の名前を詮索して報道することにどんな意味があるのだろう。出典は万葉集だと発表された。新元号を考えるためにかき集められた有識者の中から(それも暴き出した)「万葉集に詳しい人ならこの人だ」とばかりに騒ぎ立てている。ボクの個人的な気持ちを言わせてもらうなら、誰が考案者だろうが、他にどんな名前の候補があろうがどうでもいいと思っている。もう決まったことだし、それによって積極的に不利益を被った人はいないはずだ。

芸能スキャンダルをはじめとして、誰かに秘密があるとなると、ムキになってほじくり返そうとするのは悪趣味なマスコミの性癖だ。いやマスコミに限らない。自分には何の関係もないのに、ひとたび”秘密”と聞くと根掘り葉掘り探り出そうとする人は多い。確かに小学生の頃にはそんなこともあった。同級生の女の子にちょっと親切にすると、誰にも見られていないと思っていたのに、翌朝の教室の黒板には大きな相合傘に二人の名前がデカデカと書かれ、あっという間に噂は千里を走り、学年中の友達に冷やかされるのが常だった。まぁいい。それも楽しい思い出だ。

しかし、いい歳をした大人になってまで詮索癖が治らない人はとても多い。ある意味で悪趣味だと思うし、隠そうとしている秘密を無理やり暴いて世間に曝すのが正義だと勘違いしている人までいる。それが犯罪や政治はもとより、自分の普段の生活に関わることならわかる。だから政府や政治家が嘘をついて国民を欺こうとするならそれは徹底的に暴いて糾弾しなければならない。

ところが事は新しい元号である。新しく決まった「令和」という名前が他の名前だったらどうだというのだ。もちろんこれからの普段の生活の中で誰もが使う可能性のある名前だから、あまりにも画数の多い、難しい名前だったら嫌われるかもしれない。しかしその決定権は一般国民にはなかった。決まったものを受け入れるしかないものを、「誰が考案した」だの「他の候補は何だったのか」だのとほじくり返そうとするのは悪趣味でしかない。

時には芸能人のスキャンダルが、週刊誌などで特ダネとしてすっぱ抜かれることがある。しかしそれを読むほとんどの人にとっては、その芸能人とは個人的な付き合いがないどころか、会ったこともない人だ。そんな人が誰と密会しようが、子供をどこの学校に入れようが自分とは全く関係ない。それでもちょっと隠し事の臭いがしたとたんにどこからともなく群がってくるのだ。

いったいそれを知ってどうしようというのだろう。それでも、女も男も井戸端会議のネタは、ほとんどがその手の話題と他人の悪口だ。人は噂話と他人の悪口が大好きだ。どちらにも心理学的な根拠がないわけではないのだが、そんなことに時間を費やすのは人生の無駄でしかない、とは思わないのだろうか。思わないンだろうなぁ。