最近の先進諸国といわれている国では”自分ファースト”流行りだ。社会が、いや経済が世知辛くなれば誰だって自分のことしか考えられなくなる。自分さえよければ他人のことなどどうでもいいと思う。昨今話題になっている”ふるさと納税”にしても、その地域が好きだったり応援したいという気持ちで寄付している人など一握りだ。得をしたいのだ。自分が住んでいる自治体の税収が減って公共福祉の予算が減ろうが自分が得することだけしか考えていない。そんな人に限って自分の住んでいる自治体に対して子育て支援や介護福祉の充実を強く求めたりする。しかしそのための予算は自分のせいで関係のない他の自治体に流れている。自分で自分の首を絞めて全く気付いていない。まぁいい、悪いことをしているわけではない。考え方は人それぞれだ。

他の人のために何かをすると何となく気持ちよくなる。誰かの役に立てたと思うと清々しい気分になることがある。たとえそれが自分にとって1円の得にならないとしてもだ。「サザエさん」的に言えば信号機のない横断歩道で道路を渡れずに困っているお年寄りの手を引いてあげたり、駅の階段で重そうな荷物とベビーカーを持って難儀している妊婦さんを手伝ってあげたりというようなことである。最近ではこのような場面で進んで手伝いをしようとする人も見かけるようになった。目の不自由な人を自分の腕に摑まらせて誘導している人もたまに見かける。たぶん当の本人はそんなに大それたことをやっているとも思わないで自然に手を貸している。まだまだそんな場面に出会うことは少ないが世間も捨てたもんじゃないなと思う。そんなことがもっと増えてくればいいと思う。

人のために何かいいことをすると「功徳(くどく)」を積むことになるという。功徳とは仏教用語で「あとでいいことが返ってくる善い行い」のことだ。聞きかじりだが、この世でたくさん功徳を積むと死んでから極楽浄土に行かれるのだといわれている。いわば極楽行きの切符を買うために貯金をするようなものだ。ボクは特に仏教を信仰しているわけではない。お寺に行けばお参りはするという程度だ。それでもこの功徳という考え方は悪くないと思っている。他人に親切にしたって自分が得するわけじゃあるまいしと思っている人にも「功徳を積んで自分の人生に貯金をしている」と言えば「そんなもんか」と納得する人がいるかもしれない。

功徳を積んで極楽浄土に行かれるかどうかはボクは知らない。何かいいことがあるのかどうかも分からない。でも”いいこと”をしていると他人から尊敬されることはあるかもしれない。人は誰でも他の人から褒められたり尊敬されるのが大好きだ。誰だって怒られたり貶されたりするよりお世辞でも褒められた方が気持ちよくなる。いいことをして清々しい気分になるのはそんな心理も関係しているはずだ。たとえ周りで誰も見ていなかったとしても「お天道様はいつも見ている」という心は今でも日本人の道徳心のどこかに残っているのかもしれない。

子供の頃に聞かされた話だが、人は死ぬと閻魔大王の前で裁判を受けるのだという。「お前は生きている間にどんないいことをしたのだ?」と質問されるらしい。そこでどんなウソをついて誤魔化そうとしても閻魔大王のところにお天道様から送られてきた内申書には生きている間にしてきた行いが書かれており、閻魔様にはすべてがお見通しなのだという。そこでウソをついたりすればたちどころに地獄行きの裁決がされてしまうらしい。因果応報である。

話は変わるが、ベトナムなどでは屋台で生きた小魚を買って近くの池に逃がしてやるのだという。それが功徳を積むことになるらしい。当然のことだが屋台で売っている魚はその池で捕まえてきたものである。笑い話のようだが当人は大真面目だ。功徳の再利用みたいだが仏様は心が広いからそれでもいいのだろう。仏教信者が多いいわゆる仏教国ではこのような風習がまだ残っているという。修業を積むというと凡人にはとても成し遂げられない高いハードルだが、普段の暮らしの中でコツコツと功徳を積むことなら誰にでもできそうな気がする。

そんな信仰がまだ少しは残っている日本という国で生まれ育ったのなら、せっかくなら少しの功徳を集めてみるのもいいのではないかと思っている。そうだ、人は何かを集めるのも大好きなのだから。