どうせ買うならいいものが欲しい、と誰もが思う。でも「いいもの」の価値は人それぞれだ。高いものがいいものだと思う人もいれば安いものがいいものだと思う人もいる。有名なものがいいものだと思う人も、無名で誰も持っていないものが好きだという人もいる。「いいもの」って誰が決めるのか。それでも「本当にいいものですよ」としつこく食い下がる人もいる。あなたにとってはいいものかもしれないがすべての人がそう思っているわけではない。価値観には多様性がある。

家電製品だって値段や性能だけで良し悪しが決まるものではない。デザインや重さが重要なファクターになることも多い。引き出しに収まるトレーを探しているときにはサイズが合わなければ使い物にならない。高価な高級ブランドのバッグが必ずしも丈夫で使いやすいわけではない。10万円もするようなルイ・ビトンやハンティングワールドの鞄の多くは塩ビで作られている。材料費だけで価値を判断すれば3,000円もしないで作ることができる。だがその鞄に価値を見出す人にとっては”ブランド”と”デザイン”が大切なのだ。使い勝手も二の次だ。

そんなバッグに高いお金を費やしたとしても勝った人は満足しているのだ。勿体ないことをしたなんて露ほども思っていない。その人にとってはそれだけのお金を払うだけの価値のあるものなのだから他人がとやかく言う話ではない。「そんなもの買うお金があったら…」などと説教を垂れるのは年寄りである。長い間、自分の価値観だけで生きてきたのだから自分の価値観で他人を判断しようとするのはある意味で致し方ない。「私ならそんなことはしない」のは本人の勝手だが、それを他人にまで押し付けようとするのはちょっと横暴だ。でも本人はあくまで親切のつもりで言っているのだから余計に手に負えないのである。

それでも多くの人が言う「いいもの」を選ぼうとする人は大多数を占める。みんながいいものだと言っているものならそれを手にした時にはみんなから羨望の眼差しで見られ、そのことを自慢することもできて優越感に浸ることもできる。そして何よりも、それを選びたくなるのは自分が”失敗した”という烙印を押されたくないからではないだろうか。自分だけの判断で何かを決めた時には他人の評価も気になる。自分はいいと思って決めた事が他人から批判されるのは気持ちのいいものではない。できる事なら称賛されたいと誰もが思う。

仮に自分が選んだものでも「もしかしたら失敗したかもしれない」と振り返って不安になるときもある。失敗したことが分かれば嘲笑されるかもしれない。だから自分が選んだものが”ダメなもの”だと自分が気付いたとしても、やっぱり「自分が選んだもの」は「いいもの」だと思いたい、いや思おうとする。 自分を無理やり納得させてでも正当化したいのだ。どんなにつまらない買い物をしてしまった時にでも「いや、やっぱり買ってよかったんだよ」と無理にでも思えるような口実を必死で考える。どんな屁理屈でもいいから筋を通そうとする。それだけが自分を納得させるための方法なのだ。価値観には多様性があるから絶対的にいいものやダメなものはないのだ。だから常に自分を救う道は残されているしそれが人生の救いにもなっている。