漫才とコント

テレビ番組でお笑い芸人がもう一人のお笑い芸人に向かって「あんたがコントをやるなんて信じられへんわ」と言っていた。その時ボクは、そもそもお笑い芸人なのに「コント」をやらない人がいるなんてと訝しく思った。よく聞いているとその人が普段やっているのは「漫才」なんだという。「漫才」を英語で(?)言うと「コント」なのだと思っていた。ボクにとってはその程度の認識だ。はたしてコントと漫才は違うものなのだろうか?

Webで調べてみたら「ドラマ風にストーリーを展開させる」のがコントで「ボケとツッコミで笑いを取っていく」のが漫才なのだという。しかしボケとツッコミだってその裏には小さな物語がなければ笑いは取れないし何を言っているのか意味不明になる。それこそお笑いコンビ「サンドイッチマン」のコントではないが「ちょっとなに言ってるのかわからない」状態になる。一方で、ドラマ風のストーリーがあってもその中にボケとツッコミがなければ笑いは取れない。ただの小芝居だ。結局のところボクの結論としては「どちらも同じ」ということになったがどうやら記事を書いたその人が言うには違うらしい。

どうでもいいと思った。詰まるところ、どうでもいいことに拘っても本質には近づけないのだ。この件に関する限りは「コントと漫才は違うという考え方もある」ということを知識として持っておく以上のことに関わる必要を感じなかった。ただそういう意見があってそう考えている人もいるということは覚えておこうと思う。
目先の事だけしか見えず本質を理解できない人はたくさんいる。それはちょっと話をすれば「この人の思考の深さはこの程度なんだな」とわかる。その人の思考の深さが分かったらそれ以上に”深い話”をしても無意味だ。その人に合わせたレベルで会話した方がお互いに気持ちよくなれる。

会話は相手とのある程度の共通認識のもとに成り立っている。もちろん人はそれぞれに考えも違えば思想や行動様式も異なる。違いがあることを知ったうえで共通の認識を持てる部分で共感したり、違うことを理解したうえで相手の意見を聞いたり自分の考えを述べることでコミニュケーションしているのだ。もちろん意見が違えば対立することもある。自分とは相容れないと感じることもあるだろう。しかしそれは当然の事だ。誰でも他人には譲れない思想信条を持っていても不思議ではないし、それは非難されるものでもない。それがゆえに自分とは違う考え方があることを知り、自分の見聞を深め、より深い議論への糸口をつかむことができるのだ。

深く考えることのできない人は人生での経験が浅かったり、他の自分とは違う考えを聞くこともしなかったりする。世界には千差万別の考え方があるということさえ知っておけば、その考え方について深くは知らなくても知りたいときにはその考えを持っている人に訊けばいいのだ。しかし違う考え方に興味を持たなかったり頭から否定してしまえば自分が思考するためのネタとチャンスをむざむざ捨ててしまうことになる。それはいかにもモッタイナイ。

ただあらゆる考え方に精通しようと思うのはその筋の専門家でもなければ時間がもったいない。その時間にもっと別の考え方や別の世界を知ることもできるのだ。できることなら一度は経験したいこともある。知識として知っているだけでは本質の1割も理解できないことは山ほどある。一度でも経験すればその理解が3割か4割ほどには広がることも多い。そして自分が”知らない”ということを知ることもできるのだ。だから単に”知る”だけではなく”経験する”ことも大切にしたいと思っている。

ただし、自分がどうでもいいと決めたことにムダな時間を使うのはやめようと思っている。だって世界は広く深いのだから。

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