神社仏閣はパワースポットなのか

昨年の春、プライベートで奈良を訪れた。中学校の修学旅行以来で奈良市内の神社仏閣や再現されつつある平城宮などを歩いた。朝早くに訪れた春日大社では朝拝(ちょうはい)という朝のお参りに席を並べ大祓詞という祝詞をあげた後、境内にある各社にお参りをした。この時に権禰宜の方からいただいたお話の中で心に残ることがあった。我々は神社やお寺に対してどのような感情を持っているのか、ということである。多くの日本人にとって神様・仏様は願いを叶えてくれるありがたい存在であり、神社仏閣は一種のパワースポットだと考えている。もちろん単にそれだけでも構わないけれども、とその方は言うのである。

奈良京都は中学生の時に修学旅行で行ったことがある。東大寺の大仏や奈良公園の鹿、法隆寺の夢殿、薬師寺の薬師如来像、興福寺の五重塔、唐招提寺などを観光バスでグルグルと廻り、教科書に載っていた仏像などを見て廻ったが中学生なんぞが仏像を見ても面白くも何ともなく退屈な思いをしたことだけは覚えている。面白かったのは興福寺近くの猿沢池の辺りに建っていた旅館での枕投げの思い出くらいだ。それほどまでに奈良の印象は薄かった。

いにしえの人たちは神様を単にありがたいものだとは考えていなかった。日本には古くから多くの神が住んでいた。それぞれに性格は異なっていて気が短い神、乱暴な神、静かな神、災いを鎮める神など様々だが、いつも決まった性格を表に出しているわけではない。あるときは天変地異を起こして人々を苦しめることもある。だから人々は神様に「どうか怒らないで災いを少なくして下さい」とお願いしてきた。人々は常に神様を恐れてきた。

だがいつも怒っているわけではない。神様が怒っていない時には人々に災いが降り掛かってこないのだ。神様が怒らない限りは平穏な暮らしができるわけだ。だから人々は神様を敬い、神社にお参りして挨拶することを欠かさない。「これを『畏怖(いふ)』と言います」と、かの権禰宜は仰った。畏怖とは恐れることだけではない、恐れながらも敬うことだと我々に話した。

私たちも普段の暮らしの中で恐れていることはたくさんある。天災などの自然災害はもちろんのこと、会社に行けば社長や上司を恐れる。学校へ行けば先生や上級生、いじめっ子を恐れる。街ではアブナイ系の人や何も悪いことをしていないのに警察官すら恐れる。確定申告の時期になれば税務署を恐れる。しかしこれらは恐れることはあっても敬うことはない。いや学校の先生は敬うべき存在だったが今の子供や保護者にとってはどうなんだろうか。

恐れながらも敬うこと、という言葉に今まであまり感じたことのない想いをボクは感じた。たぶん神様や仏様をお参りすることとは畏怖の念を持って相対するということなのではないかと思うのだ。

人生も半ばを過ぎて神社やお寺をお参りすることが多くなった。今までは朝早く早朝の人影もまばらな参道を歩く清々しさや境内の凛とした静けさに心を鎮め、気持ちが落ち着くからと詣っていただけのボクに、畏怖という感情を教えてくれた春日大社の若い権禰宜さんと、たくさんのことを教えてもらった気持ちになれたあの朝に感謝したい。

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