「静けさ」あるいは「静かであること」が
心を落ち着かせる

「シーン」という音が聞こえてくるような静寂、とは以前になにかのエッセイで読んだ表現である。ある時に音響メーカーの「無響室」というところに入れてもらったことがある。マイクやスピーカー、ヘッドフォンなどの音響のテストをするために一切の音の反響をなくした特別な部屋だ。普段に生活の中には様々な音が溢れている。人の話す声、道路を走る車の音、水の流れる音、犬が吠える声、虫が鳴く声、様々な音に囲まれて私たちは暮らしている。そんな生活の中でいきなり全ての音がなくなった時には猛烈な違和感を感じる。5分も経つと気分が悪くなるほどだ。

ボクは普段から仕事中にラジオをかけたり音楽を聞いたりすることはない。どうも気が散って気分が乗らないのだ。だから部屋の中はたいてい静かだ。そんな中で先日、スマートスピーカーというものを買った。「OKグーグル!」とか「アレクサ!」などと言ってから「電気を点けて」などと言うとリモコンを操作してテレビやエアコンの電源を入れてくれるものである。これはインターネットにも繋がっているのでクラウド上のサーバにある様々な機能を使うこともできるのだが、その中に「コオロギの鳴き声」や「波の音」を延々と再生させる機能もある。そこで試しに仕事中にコオロギの鳴き声を小さな音でかけてみた。聞こえるか聞こえないかの小さな音なのだが、これがすこぶる快適なのである。

ボクにとって「静けさ」あるいは「静かであること」は文化生活の基本条件だと思っている。何かに集中する時にはできる限り余計な雑音を排除して静かな環境を作ることに専心してきた。しかし、コオロギの声は雑音なのだが実に耳に心地いい雑音だったのだ。しかし波の音はさながら冬の日本海に打ち寄せる荒波のような音でうるさすぎる感は否めない。雑音なら何でもいいわけではないようだ。

「都会の喧騒を離れて…」などという表現をすることがある。雑踏を人が行き交う音、電車や車が走る騒音、商店街のスピーカーから流れる宣伝放送、駅の構内放送、普段からそんな音にまみれている生活から急に何の音もしない世界に飛び込んだ時に、人は本当に落ち着いた気分になるのだろうか。刺激のない生活にどれほど我慢できるのだろうか。最初の30分、1時間はいいかもしれない。普段の慌ただしい生活から開放された心地よさを感じて清々しい気分になるかもしれない。しかしそれが何日も、何ヶ月も、何年も続くとしたら都会の喧騒に慣れた身には刺激が少なすぎるのかもしれない。

しかし刺激が欲しければ自分で作り出せばいい。なにも外から刺激がやって来るのをただじっと黙って待っているだけでは能がない。退屈なら自分が欲しいと思う刺激を作り出せばいいだけではないのか。都会にいれば耳障りだろうと不愉快だろうとところかまわず刺激は押し寄せてくる。しかし背景が無地ならその上に乗せていく色は自分好みのものを好きなだけ使うことだってできる。元の地の色が不愉快な色ではその上に重ねる色がいくら素敵な色であっても不愉快で汚い色が滲み出してくるに違いない。

今年は1年間、無地のキャンバスに思い通りに望み通りの絵が描けることを願ってお正月を締めくくりたい。

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