ボクはいつまで自分探しをするのか

地図で県内で一番標高の高い山を探すときのことを考える。まずは地図の端から全体を見回して高い山がありそうなところを広範囲にざっと見てみる。そして次に高い山が集まっていそうなところに絞って狭い範囲を丁寧に探していく。一つの山脈について一番高い山が見つかったら次の山脈を探してみる。そこで一番高い山が見つかったら次の山脈を探してみる。山脈や独立峰を探し終わったらそれらの中で一番高かった山を比較して県内で一番高い山を決める、というようなことをするのではないだろうか。人は普段はそんなことを意識しなくても自然にやっているが、それを理論的に説明すると「学習率」という概念になる。

学習率とは、何かを探したり最適な値を調べていく時に、どれくらいの範囲を探すのかという位置情報のパラメーターを動かす範囲の大きさである。学習率が高ければ広い範囲を素早く探すことができるがその精度は下がる。学習率を下げれば精度は上がるが一度に探せる範囲は狭くなってしまうので全部を探し終わるまでには時間がかかる。

何かを探すときには最初は広い範囲でざっくりと探してから範囲を狭めて詳細に狭い範囲を調べるのが効率がいい。バッグの中に入れておいた鍵を落としてしまったときには、まず自分が通ってきた道を戻って落とした鍵が落ちていないかどうかを探してみる。そのうえで「ここではポケットから財布を出して缶コーヒーを買った」とか「交差点の信号で旧い友人と偶然に出会ってスマホで連絡先の交換をした」などと細かい事象を思い出してみる。その中でバッグを開けたのは「ケーキ屋さんでスイーツを買ったとき」だけだからカバンの中身を落としたとすればケーキ屋さんである可能性が高い、と見当がつけられるわけだ。落とした鍵を探して街中をじっくり丁寧に探したら何日もかかるかもしれないが、広い範囲から狭い範囲へと学習率を大→小へと変化させながら探していけば短い時間で見つけることが可能になる。

人生においてもこのようなことがあるのかもしれない。若い学生の頃には広く浅くたくさんのことに興味を持って幅広い知識に触れてみる。だんだんと歳を重ねて経験や知見が積み重ねられていく過程で学習率の値を下げ、自分が興味のあることを深く掘り下げてみるというやり方が一般的にはいいのだろう。そして多くの人は意識することなくそんな生き方をしている。

若いうちは学習率が高いほうが全体を見渡せるので有効だ。若いうちから学習率を下げてしまうことは、若いうちから一つの分野で天才的な才能を発揮しているごく限られた人を除けば、限られた分野にだけ固執してこだわってしまうことになり、人生という限られた時間の中ではほんの一部分だけにしか触れることができなくなってしまう。その中でたまたま自分にとっての高い山が見つかればラッキーだがなかなかそうもいかないのが現実ではないだろうか。

一方で、いつまで経っても学習率を下げていくことができなければ探す範囲を一向に収束させることができない。広い範囲をグルグルと走り回るだけで何事にも深く興味をもつことなく一生を終えてしまう。もちろんそんな人もたくさんいるだろうし一概にそれがいけないことだと言うつもりもない。本人がそれで十分だと思うのなら他人にとやかく言われる筋合いもない。大きなお世話だ。

ただボクはだんだんと学習率を下げて何かに集中できるような人生を過ごしたいと思っている。年令を重ねる毎に自分が興味を持てる好きなエリアに絞って、限られた狭い範囲のことでも構わないので深く理解することができたならそれは幸せなことだと思っている。はたして今までの人生でどれだけの広い範囲のことを見てこられたのかはわからないが、そろそろ学習率を下げ始めて、今まで見て経験してきたことの中で一番高い山を探す時期に来ているのかもしれないと思う今日この頃である。

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