最高の贈り物

つい数日前のことなのだがどこで聞いたのかはすっかり忘れてしまった。もうボケが始まっているのかもしれない。低血糖はボケの原因だという。そんな話をどこかのテレビでやっていた。だからこれからは炭水化物をたくさん食べて糖をたくさん摂ろうと思った(もっともにここでいう低血糖とは、一回の食事でドカ食いして急激に体内の血糖値が上がったときに一気に膵(すい)臓からインシュリンが分泌され、その反動で血糖値が標準の値より下がってしまった場合のことです)。いやいや、ドカ食いしなければいいだけの話だ。

これも最近どこかで読んだ話だが「子供への最高の贈り物」という話をしていた。今は子供の数が少なくなっていることもあって親やおじいちゃんおばあちゃんがベタベタと子供や孫を猫可愛がりする傾向にある。子供が「欲しい!」と言えば何でもすぐに買い与え、将来の可能性の芽を伸ばそうと思いつく限りの習い事に通わせ、「やりたい!」と言ったことは考えることもなくすぐにやらせるようになった。いや、一概に悪いことではないと思う。事実、ボクだってあの時にやりたかったことを親がやらせてくれていたら今の自分は違うところにいたのではないかと思うこともある。

大抵の場合、子供が衝動的に言っていることなどはすぐに飽きてしまい、その後の人生に影響を与えることなどまずないことは分かっているが、それでも我が子に”賭ける”親の気持ちもわからないではないのだ。「こんな世の中だから子供にはやりたいことをさせてあげたい」と決まり文句のように話す親がいる。親自身がやりたかったことをできなかったのか、やりたいことを全部やって思うような人生を切り開いてきた結果なのかはわからない。しかし、やりたいことがすぐに何でも叶う人生って面白いのかな、と考えることがある。ちょっとは頑張って夢を実現できた喜びも人生の中ではいい思い出になることもある。

先の人が言うのは「子供が欲しがるものを何でも買い与えることが優しさではない」と。努力することの価値を教えること、できなかったことができるようになる喜びを教えることは「親から子供への最高の贈り物」になるのではないかというのだ。

最終的な自分の望みは自分の子供を「自分のことは自分でする」ことのできる人間に育てることなんだと言っていた。たまには他の誰かに力を貸してもらうことはいい。自分がとうしてもできないことを代わりにやってもらうことが必要なときもある。でも基本は「自分のことは自分でする」のが一人前の人間ということなのだと思う。幼少期に、お姫様や魔法使いのように自分が言ったことがたちどころに叶うような生活をしてきた子供は我慢する力が育まれないのではないだろうか。我慢する、辛抱するということは泣きたくなる気持ちを堪えながら訓練することによって身につく能力だと思うのだ。

閑話休題。

先日、テレビ番組で作家の五木寛之氏がこんな話をしていた。今では人間がうっかり間違えたり失敗しそうになったことを機械が勝手に修正して失敗しないようにしてくれる世の中になってきたが、そんなことでいいのだろうかとふと考える時がある、と。人間はどこまでダメになっていくのだろうかと心配になる時があるというのだ。確かにパソコンに何かを入力しようと思えば間違えないように「生年月日を正しく入力してください」と言われたりガスコンロの火を消し忘れて鍋が焦げそうになったら自動的に火を消してくれたり部屋の温度が高すぎたり低すぎたりすればエアコンが自動で最適な室温にしてくれたり、車のブレーキとアクセルを踏み間違えたり前を見ていないで追突しそうになったら自動で停まってくれたりする。自分がやらなくても全部機械が代わりにやってくれる。機械が失敗しないように気をつけてくれればくれるほど、人間は心配しなければいけないことさえ忘れてしまうのではないか。

生物の進化はゆっくりとした環境の変化には対応するが急激な変化にはついていけない。生物の進化は「適者生存」の歴史だと言われてきたが、実はかつて地球上に現れた生物種の99.9%以上は絶滅してしまったことが知られている。それは疫病であったり異常気象であったり隕石の衝突であったりした。どれも急激で進化などでは追いつかない環境の変化だ。それまでの「適者」は環境が変化した後では「適者」ではなくなったのだ。そこで生き延びたのは変化した後の環境にたまたま適合していた生き物だったわけである。

人間はそのような急激な環境変化に対応する力が他の生物に比べて非常に高いといわれている。それは進化ではなく文明の力で自ら発見したり作り出した道具を使って対応できたからだ。今では空気のない宇宙空間に行ったり海の底深くに潜ることもできる。

進化には2種類の方法があることに現代人は気づいている。一つは今まで地球上の生物が歩んできた生き物としての進化であり、もう一つは道具を使って環境に対応していくやり方だ。今の人類は、自分の体を変えて対応するのではなく文明の力で対応する道を選んでいるのかもしれない。果たしてこれを「進化」と考えてもいいのだろうかと思うこともあるが、我々は既に文明の海にドップリとはまり込んでいる。

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