人は誰かに会うために旅をする

一日中家にいる日が続くと無性にどこかに出掛けたくなる時がある。それは、ずっと家の中にいるというだけで何となく湿気っぽいカビが生えそうな気もするし、たまにはお天道さまの光を浴びないと何となく不健康なような気もするし全ては「何となく」という気分の問題なのだ。だから行き先はどこでもいい。近所の公園でも海岸でも河原でもいいのだが、近所のスーパーに買い物に行くのでは家の中に籠もっていたのとあまり変わらないような気がして気分も乗らない。

取り立ててどこかに行かなければいけないという用事もないので一向に行き先も決まらない。仕方なく駅に向かって歩き出してみる。駅に着いて電車に乗ってみる。上り線に乗れば都会方面だし逆なら田舎方面だ。上り電車はサラリーマン時代に嫌というほど乗っていたので気分転換には下り線がいい。途中のローカルな駅で乗り換えて山の方へ行ってみる。車窓の景色は爽やかだが所詮は県内のローカル線。取り立てて珍しいものでもないのでだんだんと飽きてくる。行先に要件があれば乗っている時間も必要経費のように感じるが、特に用事もないとなるとタダのヒマつぶしだ。

途中駅で降りて駅前にある共同浴場の人工温泉に行ってみる。平日の昼間はお年寄りしかおらずひなびた気分にも拍車がかかるがどこか東北あたりの山奥のかくれ湯ならいざしらず、家からそう遠くもない何度も来たことのあるところでは旅情もへったくれもない。ただの日常に毛が生えたようなものだ。

旅には何らかの目的が必要だ。それはあてもなく彷徨うのではない。アテはなくても「何かをしに行く」というのでもいい。何かの目的が欲しいのだ。それは「のんびりしに行く」でもいいし「電車に乗りに行く」でもいい。ただ何となく電車に乗っているだけでは所在がないのである。

駅弁を買って食べようと思う。しかし中途半端に半都会の電車では車内で弁当を開くのは気が引ける。しかし駅を降りればそこにはビジネスマンや買い物客がいたりして、つまりは普段と変わらない日常の風景だ。ここで駅弁を食べることに何の意味があるのだ、と思う。家に持って帰って食べてもさほど気分は変わらないと思う。結局、駅弁は開けられることもなく家まで帰り着くことになる。

出掛けるということは”目的”を持って何かをしに行くということだ、と思う。無目的にブラブラしてもつまらない。誰かに会いに、何かをしに行こうと思うと外出の、大げさに言えば旅行の外出の価値は大幅に高まる。電車に乗っている時、急に思い立ってホームに降り立ち改札を出ても「さて、どうしたものか」と打ちひしがれるばかりだ。せめて「何か食べよう」とか「トイレに行こう」という”目的”が少しでもあればとりあえずその場の無為感はいくらかでも小さくなるのだ。

ところが最近は”無目的”に出歩いているときほど様々な考えやアイデアが出てくることに気付いた。それは車窓の景色や周囲の人達の会話からなどではなくそれらとは全く無関係な事柄がポッと頭に浮かぶことが多い。それは何か決まった特定のことを考えずに頭の中をフリーにしておくことで思考が何かに囚われずに働くからではないかと思っている。一つの考えが浮かぶとそれに関連した事柄が次々に連想されて芋づる式に湧いてくる。

漱石の小説「草枕」はこんな場面から始まる。

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。…」

何も考えずに山道を歩いているとどこからともなく突然に何かが頭に浮かぶのは今も昔もそんなに変わらないらしい。山道を歩くのがボーッと電車に乗っていることにすり替わっただけだ。ただ電車の座席に座っているだけというのも芸がない。自分からは何も行動していないのだから。するとまた漱石のこんなセリフを思い出す。

「余計なことを云わずに歩行いていれば自然に山の上へ出るさ」(虞美人草)

歩くことをやめて止まってしまえばそれまでで全く先には進まないが、ゆっくりとでも一歩ずつ歩いていれば時間はかかってもいつかは目的地にたどり着くというわけだ。山道を歩いている時も立ち止まって休憩している間は一歩も先に進むことはないが、ちょっとずつでも登っていれば一歩ずつ景色は変わっていく。最終的な目標をどこにするのかは人それぞれで違うが、立ち止まらずに先に進むことをやめないことは常に新しい景色を見せてくれる原動力になる。

なんてことを思いながら無目的の外出にだんだんと”思索”という目的ができてきたのは一概に悪いことではないように思っている。

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