人が経験から得るもの

人は経験から学んでいる。学習からも学んでいる。学習することは他の誰かが経験しアーカイブしたものを知識として蓄積することだ。アーカイブは経験したことから細かい部分を削ぎ落として保存性を良くしたものである。だからその情報量は直に経験したものよりもずっと少なくて済む。

小さな子供は水の入ったコップを持ち上げようとしてひっくり返す。中の水はこぼれて服を濡らし飲むことができない。だから最初はこぼれにくい哺乳瓶や乳幼児用に吸口のついた容器で練習する。つまり経験値を上げるわけだ。やがて小さな子供もコップの水をこぼさずに自分で飲めるようになる。コップのどこを持てば中の水をこぼさずに持ち上げられるのかを経験から学ぶ。何度も失敗して「なぜ失敗したのか」「なぜうまくいったのか」を考えて動作の意味を理解する。物を持って重いと感じるか軽いと感じるかも実際にやってみて感じて過去の経験と比べて考えなければ判断できない。

スキー板を持ち上げる時にはどこをどれくらいの強さで持てばいいのかを経験から覚える。ボールを持ち上げるにはどことどこに指を当てて持ち上げれば手から滑り落ちないかを経験から学ぶ。やがて花瓶や急須、ポットのような複雑なものを見ても”だいたいどれくらいの重さがあるのか”や”その表面がつるつるして滑りやすい”のか”ザラザラして滑りにくい”のか、”その重心がどこにあるのか”などを過去の経験値から想像して対応することもできるようになる。

最近流行りのAIも経験のデータがなければ使い物にならない。何も知らない初期状態のAIは生まれたての人の赤ちゃんと同じように何も知らない。物を掴むことも何もできない。そこに経験値というデータをインプットしたりロボットに果てしない数の失敗を繰り返し経験させることでやがて、どうしたら今までよりもうまくいくようになるのかを学習させる。繰り返し失敗し繰り返しうまくいく経験を積ませることでデータが蓄積される。これも今流行りの言葉で言えば「ディープラーニング」だ。言葉は新しいがやっていることは太古の昔から人間がずっとやってきたことにほかならない。

つまり経験が足りなければAIも役に立たないわけであり人間だって経験が足りなければ使い物にならない。

やはり重要なのは「経験すること」だ。
SF映画やアニメの中に”脳だけが進化した”、手足や身体のほとんどが退化してしまったボスキャラのようなものが出てくることがある。かつてはマンガ「ルパン三世」の中にも出てきたし宮崎アニメの「ラピュタ」の中で動いていたコンピュータもその一つだろう。それらには感覚を感じる手足のようなものがなく脳だけが存在している。それらの脳は果たして「経験する」ということが理解できるのだろうか。

経験とは

感じること+考えること

ではないだろうか。五感で感じたものを脳で考えてその形や重さ、温度、音、味覚といったものを覚えていくという作業である。感じられないものは頭の中で「のようなもの」としてのイメージを作ることができる場合もあるが経験にはならない。生まれつき目の不自由な人が積み木などを見る代わりに手で触ってその形を「経験」するように経験にとって「感じる」ことは不可分なものである。

ヘレン・ケラーは幼少期に病気にかかって視力と聴力を失ったといわれている。家庭教師だったサリバン先生と庭を散歩していたときに先生がヘレンに井戸の水を触れせて「W・A・T・E・R」と手のひらに何度も書き、物には名前があるということを理解したという話はあまりにも有名だ。この時、ヘレンは自分が水に触れた感覚と先生がヘレンの手のひらに指で書いた「WATER」という文字の感覚を頭の中で結びつけて「今触っているもの」がWATERという名前だと経験的に知ったのだと思う。頭の中で考えているだけでは恐らく知ることのできなかったことだ。

今ではVR(バーチャル・リアリティ:仮想現実)などの技術も発達して実際に経験していないことをあたかも経験したかのように感じられる時代になった。確かにいくつかのものは現実に経験したのと同じように経験として残るものもあるだろう。しかし今の技術ではVRの中で宇宙遊泳をする経験ができたとしても(ボクは宇宙に行ったことがないのでわからないが)実際の宇宙遊泳とは似ても似つかないものかも知れない。少なくとも水族館の水槽の前で広々とした水中風景を目の前で見て海の中を想像することはできても、実際に海に潜って感じる海の中は全く異なる感覚を経験することになる。ゲーム機でテニスや和太鼓がいくら上手くなっても現実世界とは全く違うのだ。

しかし最近ではゲームの中の世界を現実と混同するかのような言動や行動を目にすることが多くなった。もちろん本物の飛行機の操縦をする前にシミュレーターで訓練することは大切な経験だろう。しかしそれは飛行機を操縦した経験にはならない。シミュレーターを操ってたとえ地面に墜落してしまったとしても教官に「シミュレータで良かったな」と嫌味を言われるだけで済むかも知れないが実際に墜落してしまったら大惨事である。他の誰かの経験を”学習”することは大切だが学習によって得られる情報量は極限まで削ぎ落とされた軽い情報でしかない。

「言葉にする」ということは経験の情報を削ぎ落として保存性を良くしてアーカイブするということである。たとえば議事録などがそれにあたる。会議中の発言を全部書いたら議事録にならない。しかし会議に出席してすべての発言を聞いて自分も発言するという経験は、あとで議事録だけを読むこととは全く異なるのだ。

経験するということは自分で感じるということだ。これからもチャンスがある限り「とりあえずやってみる」ということを大切にしたいと思っている。

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