ボケとツッコミ

会話が噛み合わないことがある。言葉を変えても言い回しを変えても例えを変えて話しても意図していることがどうしても伝わらないことがある。人は生まれてから他の人とは異なる自分だけの経験を積み重ねてきたのだから価値観や先入観も違っていて当然だ。しかし考えは違っても世の中というか社会にはその違う考え方が存在していることを知っていれば賛成こそしないが相手の考える論理を理解することはできる。議論とは相手の考えの論理をわかった上で自分の意見との相違点を見つけ出して考えをぶつけ合うものだ。異なる考えや論理を理解できなければ議論することはできない。ここでいう”会話が噛み合わない”とはそんな終末的な状況のことを指す。

漫才のボケ役は相方にどうツッコんで欲しいかをあらかじめ想定してからボケを考える。そして相方が突っ込みやすいボケネタを提供してツッコませる。彼らはこれを台本にして舞台を演じるわけだ。ツッコミ役が1人でツッコんでいるのではない。ボケ役がツッコませているわけだ。このとき会話の主導権はボケ役にある。ツッコミの角度や強さ、突っ込む場所などによってそのネタの面白さが決まる。

しかし単純なボケでもツッコミがひねり過ぎていると見ている方はツッコミの意味がわからない。演じている芸人と観客が同じ舞台に乗っていないからネタを理解できず笑えない。もっとも全くひねりのないツッコミは普通の会話を聞いているのと同じで退屈だ。

逆に予想外にキレの良いツッコミが入るとボケは更に触発される。街中でもふと耳に入った会話のキレが良すぎて1人で吹き出しそうになることがたまにある。お互いの会話がセッションバンドのソロのように見事に絡み合い刺激しあってスリリングになる。こんなときは会話をしていても爽快だ。

会話が噛み合わないと感じるのは自分がボケているのに相手がそれに気づいていないときだ。ボケがわからないからトンチンカンな返事やつまらない返事をする。それはお互いの知識レベル、趣味、教養レベルが違いすぎるときにも起こる。価値観は違ってもこの世には自分とは違う価値観があることを認めていれば知識として受け入れられ相手のボケやツッコミどころが理解出来る。会話が続かないのはお互いに知識が薄っぺらく思考レベルが浅いときだ。

和歌や短歌の知識がない人に唐突にツッコミを求めても万葉集を知らなければその面白さがわからないようなボケだと突っ込みどころすらわからない。当然意とするベクトルのツッコミは得られないから会話はそこでおしまいだ。

人生を面白くウィットに富んだものにしたければ広い知識を持っていなければいけない。いや、いけなくはないがつまらない人生を送ることは覚悟しなければならないだろう。つまらない人生の旅の同伴者はつまらない友人だ。もっともそれは相手にとっても同じだからオアイコというべきかもしれない。

今すぐにやるべきこと、そして人生で常に心を満たしておかなければならないことは、時間を無駄にすることなくできる限り多くのことに興味を持って経験や知識のインプットに努めることだ。それが他でもない自分の人生を楽しく有意義にするもっとも効果的な方法なのだから。

話をしていてレスポンスの悪い人と会話しようとするととてつもなく疲れる。頭の回転が悪いのかなぁとも思う。そんな事も知らないのかなぁと思う。いや知らないことは恥ずかしいことではない。知らないことに興味を持てないことが恥ずかしいことだ。今までのインプットが少ない人は会話にキレがない。
だからボクは会話の中で知らない言葉が出てきたらすぐに質問してみる。その答えを聞くことで「つまらない話だな」と思っていたことに急に興味が出てきたことも少なくない。

人と話すことが苦手だという人がいる。会話が続かないのだという。何を話せばいいのかわからないのだという。それならばまず相手の話していることに興味を持とう。興味が持てないことでもわからないことを訊いてみよう。会話を続けたいと思えば相手が簡単に答えられそうな質問をしてみる。相手が質問に答えたらそれに対してまた簡単な質問をしてみる。それは自分が初めて耳にしたことや聞いたこともない単語でもいい。

「それはどういうものですか?」
「初めて聞いた名前なんですがどういうものなんですか?」

それは取りも直さずインプットだ。それに相手がしてくる簡単な質問で、自分の話を聞いてくれてるんだな感じさせるエクスキューズを示すことにもなる。

何も話したくなくなるのは何に対しても無感動な人だ。

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