見守るということ

「見守り」ということが最近あちこちの現場で言われている。「これからも私たちが見守り続けていくことが大切だ」なんていうセリフはテレビや新聞などで1日に何度も目や耳にする。
今、既に問題になっている介護、保育・教育、虐待、いじめ、障害者、被災者、高齢者、認知症などなど、どこに行っても最後は「本人の意志を尊重して見守ることが大切だ」ということばで締めくくられることが多い。
しかし”見守る”と一口にいうがそれには様々な要素があり、様々な場面があり、様々な人がいて様々な関係がある。ただ共通しているのは”見守る”ということにはどれも大変な労力と時間が必要になるということである。

ただ単に「見る」ということと「見守る」ということの間には大きな隔たりがある。”見守る”ということの基本は”見続けている”ということだ。見続けるためには目を離すことはできない。だから見守りの基本はマンツーマンだ。ずっと見続けている中でなにかの異変が起こった時には手を差し伸べる。いくつものことを見守っているつもりでも2つで同時に異変が起こればもう対応ができない。

母親が長男に「ちゃんと見てて!」と言っている光景を時々見かける。大抵は年下の兄弟の面倒を見ろということなのだが、母親が目を離すと長男はすぐにゲームを始める。年下の弟や妹はすぐにぐずりだしてやがては大泣きする。そこへ戻ってきた母親は「ちゃんと見ててって言ったでしょ!」と怒っているが長男はすねて「見てたもん」と言い返している。いや、見てなかったんだけどね(笑)

この母親は普段自分がやっている”見守る”ことを年少の長男に期待していたわけだが、それはどだい無理な話だ。それがそんなにたやすいことなら母親だっていつもそんなに怒ってばかりいるはずがない。手間がかかって毎日苦労しているから怒っているのではないだろうか。ともかくそれほどに見守ることは大変なことである。

たとえすぐに手を貸さなくても、ずっと見ているということは常に傍らに寄り添っているということだ。その間、自分はほとんど他のことができない。見守っている相手のために自分のほとんどの時間を費やすことになる。それはどれほどまでに大変なことだろうか。

まったく目を離さないということは1人だけでは事実上不可能だ。大人なら仕事もしなければいけないし、トイレにも行かなければいけない。食事も作らなければいけないしご飯も食べなければいけない。だから専門家は複数の人が複数の見守りをするということでしのいでいる。一時的には1人で複数人を見るという”ワンオペ”状態にはなるがそれが今のところの最善策だろう。そのうちにロボットなどが部分的には人の代わりとして投入される日も近いのだろうが、それが浸透するまでは頑張るしかない。

一方で日本は少子高齢化が進んでいる。今までは複数の若者が1人の高齢者を見ていればよかったが、これからは1人の若者が複数の高齢者を見なければならない。そもそも人の力だけでは基本的に無理だ。だから”見守り”も誰かが誰かを見守るだけではなく自分で自分を見守らなければならない。
高齢者のひとり暮らしなどでは緊急事態を施設に知らせるボタンを用意しているところもある。誰かがずっと近くで見ている訳にはいかないから、自分に緊急事態が起きた時に誰かに知らせて助けを求める。自分は自分のことを常に見ているのだから異変に気づくのは自分自身であることが多い。
完全な仕組みではないかもしれないがこれがあるだけで見守りはかなり労力を減らすことが可能になる。他にも水道や電気の使用量などから異変を知らせるような仕組みはちょっと前からある程度は普及してきた。

一方で学校現場などでは別の問題も抱えることになる。見守られる側の自立の尊重だ。常に見守られて保護されているとやがて過保護になる。常に誰かの手助けを期待するようになり手助けなしでは何もできない人間になってしまうことだ。それでも親や保護者が生きているうちはいいだろう。しかし保護者は大抵の場合は先にこの世を去る。1人で残された人間が赤の他人の保護なしには生きられないとしたらそれはまた問題だろう。
それに子供を24時間365日常に見守り続けることは難しい。現に各地で起こっている子供が巻き込まれた痛ましい事件や事故は、必ずどこかの盲点で起こっている。

私たちはそんな大変で苦労ばかりが多い”見守る”ということを行政やボランティアに丸投げし、時にはお金さえ払えばいいと思って誰かに丸投げしている。
もちろん頼む人には頼むだけの事情があり、頼まれる人には頼りにされるだけの技術と経験があることは理解しているし、それを生業にしている事情もわかっているつもりだ。しかし今の社会ではそれは”負荷の非対称性”(負荷をかける人とかけられる人の立場の優位性の不均等さ)が大きくなりすぎているような気がする。

見守ってくれる立場にいる人達の善意だけに頼っているような社会はいつまでサスティナブル(持続可能)でいられるのだろうか。