スジは正義です

平日の昼下がり、JR東海道線の中で大声で電話している黒人男性がいた。英語を話しているのでアメリカ人かと思われるが、車両全部に響き渡るような大声で電話を掛けている。すぐに切るかと思ったら電車から降りるでもなく10分経っても喋り続けている。隣りに座っていた老年男性が「うるせぇ!切れ!」と怒鳴ったら慌てて隣の車両に逃げていった。旅行者風でもなかったので米軍の軍属だろう。彼らも日本では電車の中での通話が禁止されていることくらいは知っているのでこういう光景は珍しいのだが、よほどダメなヤンキーだったらしい。

海外では乗り物内での通話を禁止しているところは少ない。ヨーロッパなどを旅行しても社内で電話をしている人は普通に見かける。見かけるが、今回のように周りが迷惑に思うほど大声で話している人はほとんどいない。仮に日本でのルールを知らなかったとしても”アウト”のレベルだ。別にこんなことで日米地位協定を見直せとは言わないが最低限のマナーくらいは守って欲しいものである。

以前に”スジ”と”量”の話を書いた。日本人は”スジ”で物事を考え、中国人は”量”で考えるという話だ。( 「130円を返さない中国人」
普段の生活の中で”量で考える”というのは割と自然だ。要するに「そんなに迷惑がかからないんだったら少しくらいいいんじゃない?」ということだ。電車の車内でなければ歩道の真ん中で多少通行の邪魔になっていても大声で電話を掛けて怒鳴られることは少ない。しかしひとたび電車に乗ると周囲の目は急に厳しくなる。

座席に座っている人の携帯電話が鳴る。マナーモードになっているので周りの人は気付かない。本人は慌てて電話を受けて小声で「いま電車の中なんです」と言い訳をしている。しかし掛けてきた相手は上司で急用があるらしく「返事だけでいいからとにかく要件を聞け」と言っているようだ。車内で電話を受けてしまった人は席を立ち車両の隅の人が少ないところに移動してから相手の話を聞いている。時折「ええ」とか「はい」という小さな声が聞こえる。周りでは大騒ぎしている学生たちや大声でしゃべる中年女性もいてその人の電話の声などほとんど聞こえない。
それでも周りにいる人達は「あの人はいつまで電話をしている気なんだろう」という非難めいた視線で睨んでいる。そう、ここは電車の中であって”通話は遠慮すべき場所”と決められているからだ。
これが日本人であり”スジ”を重んじる国民である由縁だ。もっとも学生や若い世代には”スジを無視することがカッコイイ”という「尾崎豊症候群」もあるのですべての日本人がそのように行動するわけではないが、割と意識の深い部分に根付いていると思われる。

しかし”スジ”を通して正義を行うことは簡単ではない、というより窮屈さを感じることも確かだ。誰もいない深夜の交差点で歩行者用の赤信号をきちんと守ることには一種の無駄を感じる。「しかし守るべきだ」という感情と「ちょっとくらいいいや」という感情のせめぎ合いだ。
恐らくそんな感情の根底には長く武士の間で尊ばれてきた儒教や武士道の影響が残っているのだろう。

福島県の会津地方の小学生は今でも学校でこんなことを習うのだそうだ。

「ならぬことはならぬものです」

旧会津藩の藩校「日新館」には「什の掟(じゅうのおきて)」という決まりがあって、目上の人にはお辞儀をしなさいとか女子と喋ってはいけませんとか外で物を食べてはいけませんという一種の”校則”があった。もちろん今も昔も校則が理不尽なのは変わらないが、それでも

「たとえ理不尽だと思うことでも決められたことは守れ」

ということだ。いかにも「お上の言うことは常に正しい」という日本らしい文化だと思う。
ガイジンは概ね一般的に「何でそんなことしなきゃいけないの?」と思うらしい。日本人が「それはルールだから」と言っても「そんなルールがおかしい」と言う。言う通り確かにおかしいし「何でこんなルールがあるの?」と思うことも多い。でもやっぱり日本ではならぬことはならぬものなのです。

これをクールジャパン(かっこいいニッポン)と見るかどうかは人それぞれだが、逆に日本人はルールがなければ悪いことでも平気でする、という習性がある。

1964年の東京オリンピック前までは東京の街ではそこら中でゴミや吸い殻をポイ捨てしていたという。ちょっと前まで駅や公園の公衆トイレは中に入るのがためらわれるほど糞尿で汚れていたし、コンビニや高速道路のサービスエリアのゴミ箱には持ち込まれた家庭ゴミが溢れている。そんな光景を目にすると日本人にも良心はないんだなと思う。しかしルールを作れば良心の呵責を感じるところがまだまだ日本人が腐りきっていない証拠だろう。

スジは正義である。しかし人間はなかなか正義を行えない。正義はみんなのためである。しかしともすれば自分さえ良ければいいじゃんという悪魔の囁きが聞こえる。
そんな気持ちを封じ込めるためにかつての日本人も、事細かでスジ違いのルールまで作ったのかもしれない。