自分は事故らないと思いこむ人

以前にエジプト人の笑い話を聞いた。
エジプト人は家族や親族の繋がりが異常に強く、街中で誰かと交通事故を起こして相手に怪我でもさせようものなら、賠償金を払おうが刑務所に入れられようが相手の親族が復讐にやって来るというのである。そして相手が負った怪我と同じ怪我をさせられるのだという。「目には目を」だ。
またカイロではエジプト人は信号を守らないらしい。カイロの空港からホテルまで乗ったタクシーも赤信号ではブレーキを踏むことなく交差点に突っ込んでいくという。逆に青信号では一時停止して左右を慎重に確認してから注意深く通過するらしい。「どうして青信号で止まるのか?」とタクシーの運転手に聞いたら「オレっちの兄弟共が赤信号を無視して突っ込んでくるかも知れねぇからっすよ」と平然と答えたという。本末転倒である。
又聞きなので真偽の程は不明だがクルマ事情が日本と随分違うのは事実のようだ。

「だろう運転」というのを聞いたことがあるだろうか。
随分と前の話になるがボクが自動車教習所に通っていた頃、学科の授業で聞いた言葉だ。曰く「だろう運転はやめましょう」。
つまり

「路地から子供が飛び出してくることはないだろう」
「前を走る車が急に車線変更することはないだろう」
「対向車は道を譲ってくれるだろう」

というような楽観的な予想に基づく運転は現に慎みましょうということだ。「だろう運転」ではなく「かも知れない運転」を心掛けましょうと言っていた気がする。

「路地から子供が飛び出してくるかも知れないから徐行しよう」
「前の車が急に車線変更するかも知れないから車間距離をとろう」
「対向車は急発進するかも知れないから先に行かせよう」

という感じだ。どちらも言葉を使い分けているだけで反対のことを言っているのだがそれが本題ではない。つまりはいろいろな危険を想定して慎重に運転手なさいという趣旨だ。
もっとも普段、一般の道を走っていて慎重に運転しているドライバーは皆無である。一瞬でも隙があれば対向車に急ブレーキを踏ませても無理やり右折する車、こちらが急ブレーキを踏んだら間違いなく追突するような車間距離で煽りとばしてくるような車はそこら中を走っている。こういったドライバーは自分の運転に過度の自信を持っているか想像力に欠けたただのバカである。「キチガイに刃物」だ。だからボクはこういう車には近づかず相当な距離を置くことにしている。

しかし常に危険を想定して慎重になるにも限度がある。最近、神奈川の茅ヶ崎市(我が家の隣町)でも高齢者の車が歩行者を轢き殺すといった痛ましい事故があったが、最近の事故のニュースを見ていると車を運転していない時でさえ

「赤信号を無視して高齢者ドライバーの車が横断歩道に突っ込んでくるかも」
「アクセルとブレーキを踏み間違えた車がコンビニの店内に突っ込んでくるかも」
「無差別殺人をしようとして歩行者天国にトラックが突っ込んでくるかも」

などと考えていなければ自分の身が守れなくなってきている。こうなるともはや何も信用できない。以前なら「心配しすぎだ」と言われていたことも現実味を帯びてきている。

車の運転に話を戻せば「自分は事故らない」と思う人と「事故るかも」と思う人の違いは何なのだろうか?
ただの自信過剰と単なる心配性の違いなのだろうか。若い世代の人ならいざしらず自分が中高年ともなればただのうっかりミスでは済まされないこともある。確かに20代の頃よりは動体視力も反射神経も注意力も確実に衰えていることを実感する。
ボクは20代の頃、競技で自動車ラリーをやっていた。閉鎖された環境の砂利道の狭い林道を100km/hものスピードで走ることもあった。時には道から外れて崖下に落ちたり立木に激突することもあったが安全装備のおかげもあって幸い大きな怪我をすることはなかった。しかし今となってはあんな芸当はとても無理である。

周囲には「自分はまったく衰えていない」と豪語する人も多いが、ただ自覚していないだけで確実に衰えている。加齢による精神や反応の鈍化は徐々に進行してくるので自分が意識していなければわからないのだ。

せめて自分が事故を起こさないように注意するなら、自分の体調や加齢による判断力や反射機能の衰えを意識して、慎重にも慎重を重ねた安全確認作業と教習所で習った丁寧な運転を心掛けた上で、トラブルや緊急事態を予見する想像力を常に養い心掛けていくことが大切なのだろう。