気がついていない愚かさ

なぜ失敗したのかわからない。どこで間違ったのかわからない。でも結果的に上手くいかない。
こんな時に原因究明しようとしてよく使われるのが「なぜなぜ分析」だ。最初に始めたのは自動車メーカーのトヨタだと言われ起こった問題について「なぜ?」を5回繰り返せばその原因にたどり着けるのだと言われている。大企業の品質管理部などでは何かしら問題が起こると中間管理職がバカの一つ覚えのように「なぜなぜ分析はしたのか?」と言い出すので聞いたことのある方も多いだろう。

なぜ問題が起きたのかを追求してカイゼンすることは大切だ。問題が起きた工程をつまびらかにして工程を見直すことで次にはその問題が起こる可能性を減らすことができる。悪いことではない。
しかし、近視眼的に問題が起こったその工程だけに注目してそこだけを直していればいいのだろうか。

TOC(制約条件)理論で有名な「ザ・ゴール」の著者でもあるイスラエルのゴールドラット博士は「ボトルネックになっている工程を一つ一つ見つけ出して一つ一つ改善していくことで効率を最大化できる」と言っている。確かのそのとおりだ。他の工程の作業を妨げている工程を改善すれば少しずつでもその分だけ効率は良くなる。そしてその効率化の改善は半永久的に継続できるのだ。

しかし工程を最初から設計しようとした時にはどうだろう。どこにもボトルネックができないようにボトルネックをできるだけ少なくするように設計したいだろう。だがそればかりを考えていてはどこから手を付けていいのかすらわからなくなってしまう。
そんな時はどうしたらいいだろう。

まず大切なのは何なのかを考えてみることから始めてみてはどうだろうか。一番の目的はなんだろう。作業を止めずに工程を最後まで終了し良質な結果(完成品など)を作り上げることだ。まだ効率を考える段階ではない。無事に工程を終わせられること、そしていい結果を出すことに集中するべきときだ。工程を止めないで動かし続けるにはどうしたらいいだろう。一番優先すべき問題はここにある。

どこに問題意識を持つかが重要だ。なぜなら問題だと思っていないことは問題にならないからだ。問題があることにすら気付かない。気付かないから問題だとも思わない。悪循環だ。解決すべきことだと認識していない。認識していなければ回避することも解決することもできない。
つまり問題意識を持たない限り改善しようとは思わないから永久に改善されないわけだ。

先日、大学生のアメリカンフットボールリーグの試合で問題が起こったらしい。起きた問題自体は幸い大事にもならず最小限の被害で済んだらしい。しかし例のごとくその後処理に不手際があった。謝罪の仕方もそうだがそもそも監督すべき大人たちに問題意識が欠けていた。恐らくは「大した事ではない」とタカをくくっていたのだと思われる。

どこの記者会見や謝罪会見を見ても感じるのだがどの場合も、ほんの小さな綻びが大問題になって初めてことの大きさに気づくという愚行である。最初に問題に気付けばいくらでも対応できたはずなのに、やらなかった。問題があることにさえに気づけなかった。そこには奢りもあっただろう。無責任もあっただろう。

どうして人は地位や権力を持つと謙虚さを忘れてしまうのか。周りが自分をちやほやして忖度してくれるからだろうか。
ボクが地位や権力を手にすることはないだろうが常に謙虚であることの大切さは心に留めていきたい。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を大切にしたい。