君は道草を食べたか

「道草を食う」とは今でもよく使われる言葉である。本来の目的を忘れてまたは故意に寄り道してしまう時に使われる。
しかし実際に道草を食べたことのある人はどれくらいいるだろうか。ボクが子供の頃でも道に生えている草を、一部は除いて、食べている人はほとんどいなかった。

以前にハワイに行って牧場のホースバックライディング(乗馬)ツアーに参加したことがある。ハワイ島の牧場はその広さが神奈川県の1/4ほどの広さでとても全部を回れるものではない。牧場の中にはいくつか滑走路もあって牧場内の移動はセスナだ。

厩舎で簡単なブリーフィングを受ける。馬の鞍はウエスタンスタイルなので投げ縄で捉えた牛を結びつけるフックが真ん中に飛び出ている。シロートはそれを左手で掴んで2本の手綱をまとめて右手で持ち馬に指示を与える。前に上げた右手を右方向に向ければ右に進み左に向ければ左に進む。両足で軽く馬の腹を蹴れば歩き出し手綱を手前に引けば馬は止まる、らしい。ノーテンキなアメリカンカウボーイのレクチャーは1分で終わり「Let’s go!」ということになった。
早速歩かせようと思って腹をポンッと蹴ってみるが馬は微動だにしない。何度やっても同じだ。ガイドさんの馬が歩き始めるとその後を追ってボクの馬も勝手に歩き始めた。何のことはない。馬は自分の意志を持った動物である。自動運転なのだ(笑)

ボクが馬に乗ったのはこのときが初めてである。かつて乗馬クラブで馬に乗っていたという友人からライディングの基本は聞いていたが実践は初めてだ。馬は最初のうちはおとなしくトコトコ(並足)と歩いている。しかしちょっと開けたところに出ると勝手に早足(ギャロップ)を始める。並足は背中にまたがって一拍子でリズムを取っていればいいが並足になると二拍子だ。鞍にお尻を乗せてどっかりと座っているとお尻が痛くなってくる。
軽く鐙(あぶみ)を踏ん張って腰を浮かせる体勢で「タントンタントン」というリズムで馬の歩みと調子を合わせていく。このあたりになると気分は武豊である。当時中央競馬ではトウカイテイオーが活躍していた。
しかし調子に乗りすぎると馬も調子に乗るのかイジワルをしているだけなのか急に駆け足を始める。こうなるともはや西部劇のジョン・ウェイン(古い!)である。馬に遠慮なんてしていられない。前傾体勢になり手綱を握りしめて太ももを締めて振り落とされないようにするのが精一杯だ。しばらくするとガイドさんが馬で走って追いかけてくる。そしてボクの乗っている馬の長い顔を自分の手綱でピシャっと叩く。すると急におとなしくなってまた並足に戻るのだ。ボクのいうことなんて一つも聞きやしない。

広大な牧場の中を小1時間ほども歩いたところで休憩だ。馬は自分で水桶のところに歩いていって勝手に水を飲んだらそこらに生えている草を食べ始める。馬も人間一人を背中に乗せて歩くのだから疲れることだろう。歩いていなければ馬の背中の上はかなりの高さがあって見通しが良い。ツアーにこれまた勝手に付いてきた2匹のボーダーコリー(犬)は馬の飲水の木桶に飛び込んで水浴びをしている。

15分ほども休憩しただろうか。再びツアー再開だ。しかしひとたび草を食べ始めた馬はなかなか食べやまない。またガイドさんにピシャとされて渋々歩き始める。しかし集中力が切れたのかあまりやる気がない。すぐに止まってはそこら辺の草を食べ始めてしまうのだ。その時ハッと思った。

そうか!これが道草を食っているところなのか!

子供の頃から先生や親に「学校の帰りに道草をくうな」と言われていた。その時は”道草をくう=寄り道”と思っていただけだが。本当に道草をくうこととはこのことなんだと今更ながらに感心してしまったのを覚えている。目からウロコとはまさにこのことだ。この馬はまさに道草を食っているのだ!
しかしすぐにガイドさんがやって来てピシャっと顔を叩く。ちょっと可哀想な気もするがワガママを許していると次第に人間の言うことを聞かなくなるのだという。馬はあくまでも家畜なのである。

そういえば人間も甘やかしてばかりいるとワガママで言うことを聞かない子供になってしまう。人間はそもそも監視されていないところではルールを守らない。性善説という考え方もあるが、そもそも悪いことをしないのならこんなにもたくさんのルールを作る必要はなかった。ルールを作って縛らないと基本的に規律ある行動はしないのが人間なのだ。しかもそれが楽しくもない他人から押し付けられた行動ならなおさらだ。

馬だって自分がやっていること(背中に人間を乗せて歩くこと)に楽しさを見いだせないから人間の目を盗んで道草を食べる。人も楽しいとも思わないつまらない仕事ばかりをさせられているとサボって楽をしたくなる。
自分が楽しいと思うことってなんだろう。仕事は必ず嫌で楽しくないものなのだろうか。しかしそれでは人生は悲しすぎる。いずれにせよ生きている時間の半分は働かなければならないのだ。どうせなら少しでも”やりたい”と思えるような事を仕事にしたい。
いやそれよりも今の仕事を”やりたい”と思えるものに変えていくほうが無為に自分探しをするよりも現実的なのかも知れない。