君は曼荼羅を見たか

”曼荼羅(まんだら)”をご存知でしょうか。一度は耳にされた方も多いと思います。もともと”まんだら”はサンスクリット語であり、密教の主尊である大日如来(だいにちにょらい)を中心として諸仏が集まった絵で仏の悟りの境地を描いたとされるいわゆる仏教の宗教画です。ボクは仏教にはまったく詳しくないのですが、先日の奈良で数多くの曼荼羅をまとめて見る機会があったのでその時の感想を書いてみます。

■宗教画の世界
宗教画は世界の他の宗教にも数多くあり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教でも古くから存在したようです。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」などは有名であり学校の教科書でも見たような気がします。宗教画の目的はキリスト教でいう「聖書」のような経典を字が読めない人にもわかりやすく理解させるためのものです。ですからキリスト教では聖母マリアがイエス・キリストを懐妊する「受胎告知」の場面や先に出た「最後の晩餐」などは数多くの画家によって描かれてきました。中でもルーベンスの「 聖母被昇天 」などはアニメ「フランダースの犬」で日本でも有名です。他にも旧約聖書のバベルの塔を描いたブリューゲルの「バベル」などは先だって日本でも公開されました。

■初日の奈良観光は博物館
奈良といえば何を思い浮かべられるでしょうか。大仏?鹿?五重塔?
ボクが最初に向かったのは博物館でした。奈良国立美術館で開かれている「国宝 春日大社のすべて」展には数多くの国宝・重要文化財とともに多くの曼荼羅が展示されていました。その多くは春日大社第一の神様である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国鹿島(ひたちのくにかしま・今の茨城県鹿島神宮)を発ち、春日の地へ至ったという伝説に基づく絵画で、春日大社創建の物語を象徴的に描いたものでした。その多くは春日大社の神体山である御蓋山(みかさやま)・春日山に抱かれるように日輪と神鹿が飛来する姿が描かれており、春日に神が降り立った光景を彷彿とさせる素晴らしい作品でした。つまりその光景を見たことがない人にもそのイメージが脳裏に鮮明に浮かび上がるのです。そこには遷都したばかりの平城京と春日大社の御神殿とともに春日大社の 祭神の本地仏(ほんじぶつ)である五尊の仏菩薩(ぶつぼさつ)が立っている姿も描かれています。これらの絵を見ているだけで奈良時代の神々の悠久の姿を感じられたわけです。
もちろん絵画は好みの問題ですからそう感じたのはボクだけだったかも知れません。しかし少なくともボクには室町・鎌倉時代に描かれた絵から奈良時代の春日大社創建の物語が鮮やかに見えたわけです。

■イメージの力
今までもこのBLOGでは「誰かの心に訴えかけるには物語(ストーリー)が大切だ」ということを書いてきました。今回ボクは、ストーリーも大切だがそれを脳裏に鮮やかに浮かび上がらせるためには物語を補う絵の存在が大きいのだということをあらためて身を以て知ることになりました。
ボクは奈良に到着したその日に国立博物館を訪れてこれらの曼荼羅に触れる(触ってはいません!念の為!)機会を得てその後の奈良の町を見る目も大きく変わったのでした。今までは学校の教科書や修学旅行でしか知らなかった”奈良”という近畿地方の一都市が1300年の歴史を抱えた奥深いものとして心に残ったのです。そして学生時代には「645年大化の改新」としか覚えなかった飛鳥・奈良の歴史を少しばかり紐解いてみようと思い、古本や歴史マンガを読んでいます(笑) すると不思議な事にあの頃には苦痛でしかなかった勉強をすることもなく歴代天皇、蘇我氏、物部氏、大化の改新、十七条憲法などが関連性を持って頭の中に流れ込み定着しようとしているのでした。あの頃にこの面白さを感じていたらボクの人生は違うものになっていたかも知れません。

■数の力
そしてもう一つ感じたことは「一つだけの曼荼羅に心を動かされたわけではない」ということです。先にも書いたように宗教画は布教のためのツールです。コピーもFAXもインターネットもなかった時代ですから同じような光景が多くの絵師によって描かれました。その一つ一つは種となる光景は同じでもそれぞれの絵師によって視点が少しずつ異なり、クローズアップするものも違うのです。そこにはそれぞれが一番心を動かされた場面やイメージがあり、それぞれを違う目で眺めることであたかも立体映像を観るように目の前に現れ妄想は何倍にも膨れ上がるのです。それは自分の心の中にある異なる”共鳴できる”部分に絵が訴えかけているからだと思われました。
まったく異なるのではない、少しずつ視点を変えて訴えかけることの威力をまざまざと見せつけられたひとときでした。

博物館で過ごした時間は3時間ほどでしたが、そこで得たものは春日大社や奈良の文化だけにとどまらず大きな歴史の中で先人たちが残してくれた素晴らしい感性と知恵でした。