「なぜそれをやるのか」を伝えること

春に新入社員が入ってくると、取り敢えず身近な業務の手伝いをさせようとして細かい作業指示を出している光景がよく見られる。アレをココに持ってきて数を数えて30個以下だったら倉庫から新しいのを持ってきて補充して…などと手取り足取り教えている先輩社員もいる。新入社員も配属されたもののまずは何をしていいのか全くわからないので、細かな指示を与えてやることを作ってくれる先輩はまずはありがたかったりする。
そして1日が終わり軽い疲れとともに「お先に失礼しまーす」
この一日、新入社員たちは何を得たのだろう。
業務を実地で覚えさせるためには一番手っ取り早い方法だと思われていて「OJT」などと呼んで盛んに行われている。

仕事のやり方を覚えたのか?先輩の顔色の見方を覚えたのか?いかにサボりながら一生懸命に仕事をしているように見せる術を覚えたのか?それはよく分からない。それでも先輩社員と新入社員は一日のノルマを終える。
先輩社員に言いつけられた作業は何のためになっているのだろう?そして先輩社員はそれを新入社員に教えたのだろうか?新入社員はそれを理解していたのだろうか?
先輩社員にとっても新入社員にとってもそんな事はどうでもいいことだ。新入社員には”仕事をした~”という実感が残り、先輩社員は上司に「どうだった?」と訊かれた時に報告するネタが残ったのだから。

仕事なんてものはだいたいそんな感じで始まる。言われたことをやるだけ。その企業体質は中堅社員になってもあまり変わらない。指示を出すのが先輩社員から上司に変わるだけだ。
上司は”幹部会議”などというところで中間管理職が決めた割当のうち、自分が担当しなければならない分担を細切れにして部下に指示する。指示された部下は何が何だか分からないが指示されたことをやる。それが仕事の上でどんな役割を持って何が期待されているのかを知らない。目的は何だかわからないが大切なことは”指示されたことをやる”ことだ。

人は自分で何かを始めようとする時、その行動には目的がある。何かを成し遂げるために行動を起こす。目的もなく何となく動き回る人もいないわけではないが、それは”動き回ること”自体が目的の場合もある。街中でも携帯電話で話しながら意味もなくウロウロと歩き回る人をよく見かける。他人にとって邪魔なだけで本人にとっても意味はない(と思われる)。
何かの目的、例えば用を足すために席を立ってトイレに向かって歩く。ランチを食べるために外出してレストランを探す。目的があればそれを実現するために最善の道を選ぶことが出来る。ざるそばが食べたいのに中華料理の店に入る人はいない。

目的が分かっていれば自らの力を、ただ作業を終わらせるためではなくよりよく目的を達成するために傾けることができる。よく引き合いに出されるのが豊臣秀吉の大坂城築城の際の石垣職人の話だ。
ある秀吉配下の武将が石垣を組んでいた職人に「何をしているのだ」と尋ねたところ「見ての通り石を積んでるんです」と答えた。また城の別の場所で石を積んでいる職人に同じように尋ねたところ「天下の太閤様の日本一の大坂城を作るために誰にも破られない石垣を組んでいるのです」と答えたという。

事の真偽はさておき、最下層で石垣の石を積んでいる職人に至るまでその目的が理解されているということは、自分のやっていることが単に石を積んでいるのではなく日本一のお城を作っているのだと思うことで、その作業へのモチベーションや効率、工夫など完成に至るまでにどれほどの差がつくのかは容易に理解できる。そしてその配下に新たにやって来る職人たちにもその思想が受け継がれていくわけだ。

何のためにそれをやるのかという仕事の目的を聞かされないままに作業をしても、その作業に何の意味があるのかを新入社員が見つけ出すことは困難だ。単に作業を”やらされ”た記憶だけが残される。そしてその記憶は翌年に新たに入ってくる新入社員にも受け継がれてしまうのだ。
ただのやらされ仕事はその目的が分かっていないだけに作業する人間も工夫のしようがない。どうしたらもっと早く楽に綺麗に完成させることが出来るのか、作業していれば誰でも考えることだ。そのためには最初にその目的を理解してから作業を始めることで個人の能力は何倍にも高められる。そしてその心根は代を超えて受け継がれていくのだ。
人には他人が思いもよらない才能や才覚がある。しかしそれを活かすも殺すも人の動かし方次第なのだと思う。