迷惑の境界線

子供の頃から、人に迷惑をかけるようなことと後ろに手が回るようなことはするなと教わってきた。特に祖母はそのことには煩かった。最近ではあまり使われない言葉だが「後ろに手が回る」とは、要するにおまわりさんのご厄介になるということだ。それ以外のことは何をしてもいい、とは言わなかったが割と奔放な環境で育ったような気がする。
ところで”迷惑をかける”ことってなんだろう。人が嫌がることをすることだろうか。社会が嫌がることをすることだろうか。他人が嫌がることと社会が嫌がることは違うのだろうか。
迷惑は誰が掛けるんだろう。迷惑なことってなんだろう。なぜ迷惑と思うんだろう。

辞書を引いてみると

「迷惑」
①どうして良いか迷うこと
②困り苦しむこと、難儀すること
③他人から厄介な目に遭わされて困ること

とある。一般的には③が当てはまりそうな気がするが要するに、困ったりどうしたらいいのは判断に困るようなことを押し付けられることも迷惑をかけられることになりそうだ。相手にとって不都合なことが迷惑というわけだ。

一方では迷惑行為を次のように捉えた解釈もある。

(1)明文化されたルールや法律に違反した行為
(2)ルール化されてはいないが、他人に実害が及ぶ行為
(3)実害はないが他人に不快感を与える行為

(1)は明らかだ。ルール違反を迷惑行為とするのは概ね誰からも反対はされないと思う。例えば迷惑行為の代表ともいわれる痴漢などがそれに当たる。交通ルールを守らない信号無視や暴走行為もその一つだ。
では(2)はどうだろう。20年前なら当たり前のように存在していたセクハラ、パワハラ、いじめなどを”迷惑行為”と捉えていたか、ということである。今では女性に「まだ結婚しないの?」などと言えば即セクハラでアウトだ。しかし20年前にはそんなことは日常茶飯事だった。時代は変わった。そのうち男性に対して女性が同じことを言ってもセクハラになる時代が来るのかも知れない。
昨年、高速道路上での死亡事故をきっかけに一時騒がれた道路上でのあおり行為も(マスコミは視聴率が取れなくなった話題は大きな問題を孕んでいても報道しなくなるのが常だ)ただの迷惑行為とされていたが警察も話題になったその時だけは取り締まりを強化して”違法行為”として検挙した。もっともこれは今でも日常茶飯事に発生しているので最近では警察もあまり熱心に取り締まってはいないようだ。

問題は(3)だ。”実害はないが不快感を与える”という言い回しだ。不快感を与えるということは与えられた人にとっては実害があるということではないだろうか。つまり、迷惑をかけている(とされる)方にとっては何も悪いと思っていないことでも、それをされる方が”害がある”と思えばそれは迷惑行為である、と言いたかったのではないかと思う。
最近の”いじめ行為”などではそのように語られることが多い。いじめる方はいじめだと思っていなくても、される方がいじめだと思えばそれはいじめなのだ、という判断だ。
極端なことを言えば、ある人は身だしなみのために香水を付けていた。レストランで隣のテーブルに座った人がその香水の香りで「料理の匂いがわからなくなる。不快だ」と思えば迷惑だろう。でも香水を付けている人は周りの人に対する敬意や配慮のために付けているのかも知れない。迷惑をかけているなんてことは少しも思っていないはずだ。

先日フランス人がこんなことを言っていた。「家が火事になって素っ裸で外に飛び出すのは仕方ないけど、香水を付けないで外に出るのは我慢できない」と。価値観というものは如此く大きく異なる。

自分以外の多くの人が”避けることのできない不快感”を感じることが迷惑行為ということになると思うが、不快感の捉え方は人それぞれに全く違う。日本人はそばやラーメンをすする音を不快だと思う人は少ないが、日本人以外のほとんどの人は不快に感じているという。だから日本にいるときにはそばをすすってもイタリアに行ったらスパゲティをすするのは遠慮した方が賢明である。
”迷惑行為”にハッキリした境界線が引けるわけではない。相手が、周りの人がどう感じるかがすべてだ。だからこそ相手の立場に立って空気を感じることが重要になってくる。それができない社会になればなるほど迷惑行為を明文化してルールを作って禁止することになる。そうすれば誰もが迷惑行為の根拠を示すことができるからだ。

現代の日本では特に、明文化されていないことでもある程度の人が迷惑だと感じれば明文化される傾向にある。法律ができて破れば処罰される。ある意味ではどんどん生きにくい社会になっている。