「駅を作れば人が来る」と思う人の発想

あなたは新幹線の東京-新大阪間を「こだま」で移動したことがあるだろうか。「こだま」は新幹線の各駅停車なのですべての駅に停まる。片道4時間超。停車したほとんどすべての駅で後続列車に抜かれる。
アタリマエだ。後続列車に追い越させるために「こだま」だけが停まる駅を作ったのだから。そうでなければなぜ「新富士」駅を作る必要があったのか。
静岡県内には「のぞみ」の停車駅はない。東西に250km以上の長さを持つ静岡県を「こだま」で移動するとある種の苦痛を感じるようになる。

旧東海道を大きく外れてルート開発された東海道新幹線の岐阜羽島駅は、政治家だった大野伴睦の一声で作られたらしいが、今でも乗り降りする人はまばらだ。駅にはパチンコ屋と2~3のビジネスホテル、名鉄羽島線が単線で乗り入れている以外に目ぼしい建物はない。恐らく50年前の姿とあまり変わっていないのではないかと思う。だが「のぞみ」や「ひかり」の増便によって遅かれ早かれ必要になった駅だ。名古屋駅と米原駅の間はやや距離がある。関が原や伊吹山がある関係上、大野伴睦がいなかったとしてもその周辺のどこかに駅は作らざるを得なかっただろう。新幹線の「こだま」停車駅とはそのような駅だ。
いっそのこと「こだま」など走らせずに駅も作らないという選択肢もあったに違いない。しかし1964年の東京オリンピックを控えて迅速な用地買収のためには、地元への配慮が不可欠だったのではないだろうか。

一方で東海道新幹線の熱海と山陽新幹線の新神戸駅には待避線がない。つまり後続列車を追い越させることができない。しかしこれらの駅には新丹那トンネルや六甲トンネルという長いトンネルを掘るために、その工事の基地として駅が必要だったのだろう。かつての新幹線の駅にはこのような背景があって作られてきた。新横浜駅も今でこそ「のぞみ」が停車し、多くの企業も集まりスタジアムも作られたが、新幹線が開業してから約30年間、ほんの20年ほど前まで駅前の半分近くは空地であり寂れた駅だった。

今、神奈川県寒川町に新幹線の「相模新駅(仮称)」を誘致しようという動きがある。周辺の自治体では経済発展の起爆剤などとして期待している。特に神奈川県綾瀬市には鉄道の駅がないことから誘致に熱が入っているという。しかし、しかしだ。綾瀬市民が望んでいるのは恐らく新幹線の駅ではない。横浜や東京にスムーズに通勤できる交通機関の駅だ。
ご存知だろうか。「こだま」は30分に1本も走っていない上に東京に出るにはバカ高い特急料金までかかる。また既存の鉄道駅周辺は商業地・住宅地として建物が密集しているため新駅を作るとしても畑や田んぼのど真ん中に作らざるを得ない。そんな駅を誰が使うと思うのか。(現在は寒川町倉見地区に誘致する方向で動いているらしい)

藤沢や茅ヶ崎、平塚あたりに住んでいると確かに新幹線とのアクセスは良くない。東海道線で小田原駅に向かっても停車するのは「こだま」と1日に数本の「ひかり」だけだ。現実的には品川や新横浜に出るしかない。新駅はこの地区の住民には役に立ちそうにも思える。しかし新駅ができても停まるのは「こだま」だけ。新駅までのアクセスには猛烈な渋滞も覚悟しなければならず、時間は品川駅に向かうほうが短時間で済むだろう。神奈川県は東西方向の道路や鉄道は発達してきたが、南北方向には鉄道も道路もほとんどない。古くから”東海道”ありきの土地なのだ。
そう考えると何のために駅が必要なのかがまったくわからなくなる。そもそもほとんどの住民が日常的に新幹線を使うことなど、ない。

最近では、建設談合なども含めて、新幹線よりリニアの話題が多くなっている。ここでも県内には相模原市にリニアの駅ができるらしい。もっともリニアの車両基地を作る必要があるからとのことだが。
相模原でも「リニアの駅ができたら人が集まる」と本気で思っているらしい。アジアの国々は大都市集約型の街づくりが基本だ。日本も明治維新以降、大都市が中小の都市から人を集約して発展してきた。今では東京以外は人口が急激に減っている。首都圏でさえ横ばいか減少傾向だ。つまり今の日本経済には東京以外は、せいぜい大阪を含めた関西の2つ以外はいらないのだ。ましてやその周辺の町に用のあるビジネスマンなどほとんどいない。こんなことを書くとまた誤解を招くが、鉄道や道路のインフラは人口の集中度によってのみ左右される。

「駅さえできれば人は来る」という発想はどんな根拠から出てくるのだろう。駅ができたからといって他の地域からわざわざ平塚に人がやってくるだろうか。いや、来ない。間違いなく来ない。来る必要がないからだ。
あなたは用もない駅で降りようと思うだろうか。用もない駅で降りて何をするのか。ボクは長年首都圏近郊の鉄道で通勤してきたが、降りたことのない駅などいくらでもある。いやほとんどの駅には降りたことがない。降りる必要がなかったからだ。人は用があるから駅で降りるのだ。

どうして「自分だったらどうなのか」を考えようとしないのか。自分がしたくないことは恐らくほとんどの人もやらないことなのだ。百歩譲って自分とは違う考えを持つ人がいたらどうだろう。何をするだろうか。用もない駅に降り立つだろうか。

自分と違う考えを持つ人のことは、考えてもわからない。「駅さえできれば人が来る」と思っている人と同じように。