会話の本質は語尾にあり

他の人同士の会話を聞いていると、時々びっくりするような内容や思わず笑ってしまうこと、なるほど!と手を打ちたくなるような内容だったりすることがある。自分とは違う生き方をしてきたわけだから当然といえば当然なのだが「ここまで価値観が違うのか!?」という人たちに出会うと驚きを通り越して嬉しくなってしまうこともしばしばだ。
会社勤めをしていた頃は専業主婦の人たちの話や価値観に驚かされることが多かったが、今では学生や若者の会話が耳に入ってくることが多く、ボクたちが育った時代環境とは随分と変わってきたらしく「そんなことが話題になるの?」と感じることも多い。

そんな会話を小耳に挟むとその事を誰か他の人にも話したくなってしまうのだが、ほとんどがいわゆる「どーでもいい話」なので、家に帰る頃には話を聞いたことすらすっかり忘れてしまっている。そこで最近は面白いことを耳にしたときには小さなメモ帳に書き留めるようにした。最近ならスマホに書き込めばいいと思う人も多いと思うが、ボクは外出中にはスマホをバッグにしまいこんでおりサッと取り出すのにはかなり手間がかかる。それに手書きのように”余計なこと”を気軽に書きなぐって追加することも面倒で時間がかかる。ポケットにメモ帳と小型のボールペンを入れておいてその場でパッと書きつけるほうが気軽なのだ。

まぁ書いておくのはスマホでもメモ帳でも何でも構わないのだが、あとでその話を思い出せるように記録しておかなければ見返した時に「はて?これは何のことだったかな?」などという情けないことになりかねない。他人の話や会話の要点を簡潔に記録するにはどんなやり方がいいのだろう。

かつて、脚本家の倉本聰さんが自身のエッセイに書いていた言葉を思い出した。「会話の本質は語尾にこそある」という言葉だ。語尾?「です」とか「ます」とか「だろう」とか?さすが東大卒の人は凄いなと思ったが、いくらなんでもそれだけではあとになって話のあらすじを思い出すのは大変だろう。会話が長く続けば「~だよね」「~だろ?」「~なわけねぇ」なんて言葉ばかりが羅列されてそこから内容を類推するのは至難なはずだ。とてもそこに「本質」があるとは思えない。ボクにはそのことがずーっと頭に残っており、不思議に思っていた。

最近になって落語を聞いていて「もしかしたら」と思うことがあった。落語には「枕」があってから本題に入る。そして最後には「落ち」と呼ばれる「下げ」があって噺が終わる。例えば有名な「目黒の秋刀魚」。お殿様がお城を出て通りかかった目黒で町人が七輪で焼くサンマの匂いに誘われて一匹貰って食べたところ…という話だが全部を記録しようと思えばそれなりに長くなる。でも話の内容を一言で言えば「サンマは目黒に限る」だけで話の内容はすべて思い出せる。「桜鯛」という噺では、お殿様が鯛の塩焼きに一口箸を付けたところで「次を持て」と言う。しかしいつもは一口しか箸をつけないのでおかわりは用意していない。そこで一計を案じた部下は庭の桜を指さして殿様に「見事な桜です」と言って、殿様がよそ見をしている間に鯛をひっくり返して「これに」と言う。殿様はまた一口だけ箸をつけて「次を持て」とおっしゃる。困った部下に殿様は…。この話だって「もう一度桜を見ようか?」さえ覚えていれば話の流れは全部見えてくる。

ははぁ~、これだこれだ。語尾ではない。オチだ。きっと倉本聰さんはこの事を指して「語尾」と言ったに違いない、と思った。

生きているうちに倉本聰さんとお話する機会は多分訪れないだろうから、あの世でお会いすることがあったらぜひ伺ってみたい。
そしてそれがまったくの的外れだったら…
それはそれで面白い話だ。