「それでメシが食えるのか?」

大学で物理学科などというおおよそサラリーマンに不向きな道に進むと、社会人としてのスタートは半分以上失敗である。一方で工学部や応用物理、応用化学などの”応用”が付いた学部にはたくさんの求人が来る時代だった。就活もロクにしなかったボクはスタートからつまづき、最初に収入を得たのは公立高校の「臨任」という立場だった。臨時任用的教員、つまり代用教員のような立場である。任期は1年。とりあえず理科を教えることになった。”先生”という立場の学校生活はそれなりに面白かったが、職員室の”先生”たちの公務員的雰囲気は好きになれなかった。

学校をクビになって次に就いた仕事は電線製造会社のコンピュータ室の仕事だった。当時はまだパソコンなどなく、汎用コンピュータという大型コンピュータが全盛の時代だった。8畳ほどの部屋のほとんどを占領するコンピュータのプログラミングなど、一人でシステム開発のやることになった。この頃は今のように週休二日制ではなく、月曜から土曜までの勤務が普通だった。朝8時から夜7時までは製造工程管理の事務仕事をして、夜7時からはエンドレスでEDP(電子受注システム)とシステム開発の仕事をした。仕事自体は楽しかったが、休みも寝る時間も少なく3年ほどで体を壊して退職した。

中学生の頃にはフォークソングが好きで、かぐや姫やさだまさしの弾き語りなんかをやったりしていた。
高校生になって、当時は「不良がやるもの」と言われたエレキギターを始めた。コピーバンドを作ってロックやニューミュージック(かつてのフォーク)などをやっていた。

親父には何かというと「ギターで食っていけるのか?」と嫌味を言われた。大学の頃、山岳部にいたという親父は時々山に出かけていたので、ボクも嫌味で「じゃあ登山でメシが食えるのかよ?」と言ってやった。そもそも親父とは反りが合わなかった。親父は黙っていた。
子供の頃は高校球児のほとんどがそうであるように「将来は野球でメシを食っていく」などとは思わないものだ。しかし親父は、すぐに息子のやっていることを否定し、将来の食い扶持と結びつけては嫌味を言うような人間だった。

コンピュータの仕事のブラックさに懲りたボクはとある登山用品の店に勤めることにした。仕事内容は主に接客。営業や接客という仕事はやったことがなかったので、色々なお客さんと話せる毎日は楽しかった。たまには商品仕入れの仕事もしたが、自分が「これぞ!」と思って仕入れた商品がバンバン売れると損得抜きに嬉しかった。
その後、ホテル業やIT業界、印刷業界などを経験することになるが、ギターや卓球、テニス、バスケットボール、草野球など子供の頃からの経験を含めて、結果的に何をやっても「ムダなキャリアだったな」と思うことはなかった。「システム開発に営業経験は無駄だ」という人もいるかも知れない。しかし得意先でシステム要件をツメるときに営業スキルはとても役に立ったし打ち合わせもスムーズに進んだ。営業先でスポーツの話になり、プロテニスプレーヤーの話に及んだときもとても楽しい打ち合わせができたし、クロージングでは販売現場での経験が生きたものだ。

今でも小さな子供に訊けば「新幹線の運転手になりたい」「お巡りさんになりたい」「消防士になる」「美容師さんになる」と夢を話してくれる子供はいっぱいいる。
何をやろうとしても「そんなことやったってムダ」とか「どうせダメに決まってる」「プロになんかなれるわけない」という後ろ向きな気持ちばかりでは子供の頃の素直な気持ちをどんどんなくしていく。
「うちの家系にはそんな才能はない」なんて言われたら子供はなんて思うだろうか?
「そんな仕事をしたってお金持ちにはなれないぞ」なんて言われたら子供はどう思うだろうか?
やりたいことはやればいい。他人の迷惑にさえならなければ、後ろに手が回るようなことさえしなければ何でもやればいい。そんな中で新しい自分を見つけたり、心からやりたいことが見つかるかも知れない。

そして何かを始めるのに遅すぎることはないし、好きなことをやるのに自分で限界を決める必要はないのだ。