折込広告などのアルバイトやパートの求人を見ていると「誰にでもできる作業」と書かれているものをよく見かける。それは過去に経験がなくても普通の人なら簡単にできる作業という意味なのだろう。簡単な作業はいくらでもある。部品や商品を5個や10個などの決まった数にまとめて袋や箱に詰める作業やファストフードやコンビニの店員なども、多少は慣れが必要だが特殊技能や国家資格の必要な作業ではない。最初にやり方を教えてもらって少し慣れれば特に難しいことはない。まさに”誰にでもできる仕事”だ。
簡単な作業なら誰にでもできるが、その簡単な作業を続けられるかどうかは別の話だ。言ってみれば労働集約型の作業にはその問題がついて回る。工場の生産ラインに就いて1日中流れ続けてくる同じ製品の同じ場所のネジを締め続けたり、物は毎日違っていてもごみ収集車に乗って集積所を廻り生活ごみを集めてくる仕事などがそれにあたるだろう。”誰にでもできる簡単な作業”であることはたぶんそうなんだと思う。ごみの収集の仕事は誰にでもできるかもしれないがその一方で誰かが必ずやらなければいけない作業だ。その作業を一言で”簡単な作業”と言ってしまうには抵抗がある。
”簡単な”という言葉の言外に”くだらない”とか”つまらない”いう要素を感じることはないだろうか。例えばごみ収集の仕事は毎日決められた作業をする。ある意味で”簡単な”仕事かもしれないがそれはとてつもなく重要な仕事だ。誰もが経験することだが年末年始の休みにはごみの収集が休みになる。毎週1回のプラスチックごみの回収が1週だけ休みになるだけで2週間の間、家庭内にプラごみが溜まり続ける。ほんの1回休みになっただけで恐ろしいほどのゴミで家の中が溢れる。そんな仕事は簡単な作業かもしれないがもの凄く重要な仕事であることは間違いない。
生産ラインではネジを締める作業はどうだろうか。ネジを締める作業だけなら莫大なお金をかけて自動ロボットを作れば解決する問題かもしれない。しかしその”ネジ締めロボット”にはネジを締める作業しかできない。「新しい部品を持ってきてボルトを締めて取り付ける」という作業に変更しようとすればすぐにロボットは使い物にならなくなる。その点人間なら、同じ程度の簡単な作業としてすぐにでも対応することが可能だ。作業をコンマ数秒素早くできるかどうかならロボットに分があるかもしれない。しかしスピードではロボットに及ばなくても柔軟性では圧倒的に人間に分がある。「誰にでもできる簡単な作業」だがその中には果てしない種類の作業が含まれており、それをいとも簡単にこなせるのが人間のすばらしさである。
工場の生産ラインを設計するときには1つの作業にかかる時間を計算してラインを流すスピードが決められる。作業を始めたばかりで要領の悪い人は作業にかかる時間が長いのでラインのスピードについて行けない。後から後から押し寄せるノルマを捌ききれずにアップアップしてしまう。簡単な作業でも素早くこなすにはそれなりのスキルも必要になる。1つの作業にかかる時間がコンマ数秒遅れただけでラインから取り残されてしまう。ところが「こんなスピードじゃ全然追いつけない」と思っていた作業に次第に慣れてきてコンマ数秒早くできるようになると何の問題もなくラインの作業が続けられるようになる。そのために必要なのはテクノロジーでも資格試験でもない。ちょっとした手首の返しの角度だったり部品を持ってくる手順や置き場所の工夫だったりする。置き場所を工夫するだけでコンマ数秒早くすることができれば解決だ。しかしその工夫をするためには常に周りの状況を把握して「どうすれば改善するのか?」を考え続けることが必要だ。
”誰にでもできる作業”をくだらないこと、つまらないことだと決めつけて「自分はこんなことをするために就職したんじゃない」とせっかく就職した会社をすぐに辞めていく若い社員が後を絶たないのだという。どんな仕事でもどんな作業でも工夫することで改善できる余地は残っている。今までできなかったことが楽にできるようになることもある。それを考えて工夫することもある意味で楽しいことだ。誰にでもできるからつまらないと思うのは一種の奢りだ。
数学者の広中平祐氏は学生の頃、「数学の問題だって解けたらそれで終わりというのではいかにもつまらない。次はどんな解き方で解けるのか、どれだけ早く解けるのかと考えると楽しくてならない」と話していたという。「人生いたるところ青山あり」である。
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