記憶にございません

コミニュケーション

「と思う」とは自分では計り知れないことを推しはかって「自分の考えではこうなっていると類推する」というときに使う言葉だ。ところが最近では「私は嬉しかったと思います」などと平気で言われる。”嬉しかった”のはあくまで自分の感情なのだから「と思う」などと言うまでもなく自分で分かっていることだ。「嬉しいと思ったと思います」などと言われると、その時の自分のことを忘れちゃったの?と思う。明らかに変だ。ボケるにはまだ早い。そんなセリフを聞いていると、かつてロッキード事件の国会証人喚問で流行った「記憶にございません」という”迷証言”を思い出す。

それにしてもあの時の証人喚問の発言はよく考えられていた。嘘かといえば嘘ではない。しかし事実かといえば事実でもない。後になって新事実が明るみになった時に言い逃れができるように考えられていた。ミッション・インポッシブルのイーサン・ハントがレーザー光線で守られた敵陣の防御を網の目をくぐるようにかいくぐっていくようにちょっとの罠にもかからないように考えられていた。

例の「記憶にありません」というセリフは当時の流行語にもなった。学校で宿題を忘れて先生に「昨日言っただろ!」と怒られたときにも当時の小学生まで「記憶にありません」と言っていた。もちろんその後は先生にぶん殴られることになるのだが…。

「知らない」と言ってしまえば後になって「あの時は知らないと言ったではないか」と責められる。しかし「記憶にありません」なら、あの時は記憶になかったと”思った”が「今思い出しました」と言って言い逃れられる。恐らくヤメ検の腕利き弁護士が考えたのだろうがなかなか秀逸だと思う。最近の国会答弁にはこういう”頭の良さ”が感じられない”と思う”。

芸能人などは記者会見で今の気持ちを表すときにも「嬉しいと思います」などと言う。「他人事か!」と思うが、後になって週刊誌の記者に「あの時は嬉しいと言ったではないか」と責められたときに「あの時は嬉しいと思ったのだがよく考えてみると別に嬉しくはないことが分かった」と言い逃れられる。そこまでして言い逃れることでもないことがほとんどなのだが。それでも「嬉しいです」と言いきれない。

とても話している人がそこまで頭が廻っているとは思えないし女性週刊誌やワイドショーの取材に多少の嘘をついても大したことではない。みんなやっていることだ。それでも発言の終わりには「と思います」を付け加える。

恐らく「と思う」を連発する人は何かを断言することに慣れておらず、断言することに恐怖を感じているのだと思う。怖いから無意識のうちに「と思います」を付け加えて逃げを打ってしまう。断言することに慣れていない自信のない人はあたかも他人事のように「と思う」を連発する。

しかしすべてのことに断言できない決められない人間はいつまで経っても信用されない、と思うんだけどな。

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