気象庁は地方気象台での目視による観測を終了したと発表した。目視観測とは「観天望気」のことである。肉眼で空を見上げてその日の天気や雲の量、風の強さなどを人の肌感覚で感じて観測野帳をつけたり天気予報をするやり方だ。今のように精密な観測機器がなかった時代には気象庁の予報官たちはそうやって天気予報を出していたらしい。それが次第に観測機器が発達して降雨計や気温計、湿度計、レーダー、衛星写真などが充実してくると予報官たちも日々の膨大なデータを解析して天気を予想するやり方が主流になってきた。今ではそれらのデータをスーパーコンピューターで解析して天気予報に役立てている。
柳田邦夫さんの「空白の天気図」というドキュメンタリー小説は、太平洋戦争の終戦直後の昭和20年9月に西日本を襲った枕崎台風を迎え撃った広島地方気象台での出来事が綴られている。日本では戦時中は軍事機密のために一般には天気予報が発表されなかったという。それが8月15日の終戦から1週間後の8月22日から天気予報を再開することが決まった。しかし日本中が焼け野原になっていた昭和20年の8月である。各地からの気象情報の入電はほとんどないときである。そんな時にどうやって天気予報などできるのか。予報官たちは途方にくれた。
そんな時に中央気象台の藤原台長が予報課で若者たちが「天気予報をやるとおっしゃってもデータが足りないのでとても自信が持てません」と訴えるのを聞いて、「今の若いものは困る。部屋の中にいるからデータがないと予報ができないなどと考えるのだ。データ、データというが外へ出て空を見なさい」と言ったという。藤原台長の頭の中にはいつも空を望んで天気を予想する”観天望気”の方法があったのだ。すなわち空を観察することが予報の第一歩だという考え方だ。
昔から「夕焼けになると明日はいい天気」だとか「ツバメが低く飛ぶときは天気が悪くなる」などと言われてきた。今でも富士山に笠雲がかかると天気は下り坂だというのは関東地方で広く知られている。これらは古くから農民や漁師が普段の生活の中から経験として身につけた知識だ。
広島地方気象台では原爆が投下された直後で台員もその家族にも死者やけが人が続出し観測機器も壊滅的な被害を受けていながら細々と観測作業が行われていた。そしてその多くは観天望気による天気状況の報告であった。それでも気象マンの意地で欠測(観測データが欠けること)だけは絶対に出さないという決意で作業に当たっていたのだという。その心意気が”環境が悪いからできない”ではなく、”何もなくてもできる限りのことをやる”というモチベーションを生み出したのかもしれない。
結果的に枕崎台風は被災直後の広島の街を直撃し西日本に甚大な被害をもたらしたのだが、そんな中で戦い続けた人たちがいたことをボクは決して忘れないでいたいと思う。
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