自学という勉強

コミニュケーション

受験やテストのための勉強にはあまり興味のない子供がいるという。いや子供のうちはそれが自然だろう。しかし日本の学校ではいい成績をとったりいい学校に進学するためにはテスト勉強は不可欠だ。逆にそれさえやっていれば幸せな将来は約束されているという人までいる。だから日本の学校では、いや幼稚園の頃から子供には「お受験」のための勉強を強いる親御さんも多い。それはそれで一つの価値観だろう、ボクが子供だったら御免こうむりたいものだが…。

ところがある小学生はテスト勉強や受験勉強にはあまり興味を持てないがほんのちょっとしたことに興味を持ったり、不思議だなぁと思うとテストや受験には何の役にも立たないことなのに何時間も何日も没頭してのめり込んでしまうのだという。そして自分なりに考えたことや自分が得た結果をノートに事細かに記録してきたのだという。小学生の頃から書き始めたそのノートは中学3年生になる頃には10数冊にもなり本人が言うには「自分史」にすらなっているのだと言う。それを彼は「自学」と呼ぶ。自らやりたくて学ぶからだ。

そんな学歴社会に役立たないそんな勉強は日本の学校では教えてくれないし先生も親も「そんなヒマがあるなら受験勉強をしなさい」と言うだろう。実際にその子の親も中学3年生になっても受験勉強をしない子供をヒステリックに叱りつけたらしい。それでも興味のないことはヤル気にならず、地域にある科学館や博物館に行ってそこの”大人である”学芸員の人たちに自分の書いたノートを見せて「自分はこんなことを考えているんだけどどうも上手くいかない。何かが違っているのだろうか?」などと相談したりした。学校の先生とは違って学芸員の人や商店街で古い時計を展示していた時計屋のご主人たちはその子がやっていることを「素晴らしい!」と思い応援してきた。その結果案の定、公立高校の受験には見事に失敗してちょっと興味のあった私立高校に進学した。

相談された大人たちもその子から将来について相談された時には「この子のやっていることは理系なのだろうか、それとも文系なのだろうか?」と考えてしまったという。一見して科学的な実験であってもそのノートに綴られている言葉には文学的な色合いが深く刻まれていた。教育を理系と文系に分けなければ気が済まない既製品である大人の一面をさらけ出してしまったわけだ。明治の物理学者・寺田寅彦も世間ではエッセイストだと思っている人が多い。文章は素晴らしいがそれだけではない深い考察の裏付けがあってその功績は成り立っている。「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉を残したのは外でもない寺田寅彦その人だ。

たぶん多くの大人たちはそんな彼の行き方を見て「やっぱりあんなことをしているから人生に失敗するのよ」と言うのだろう。しかし小学生からの10年近くにわたって自分が興味を持ったことだけを徹底的に追求して続けてきたというその姿勢をボクは素晴らしいと思う。

日本の社会や学校は画一的な規格にあった大人を効率よく大量生産するためにその教育システムを作り上げてきた。その結果世界でも有数の経済大国になり優秀な人間をたくさん作り出した。それは命令に従順に従い、非効率なことをせず、言われたことをきちんと仕上げられる”優等生”には違いない。しかし少しでもその規格を外れた途端に”不良品”として外(は)じかれてヤレ箱(不良品箱)に打ち捨てられてしまう社会だ。誰もがそうならないように”みんなと同じことがきちんとできるように”教育されていく。

最近は「みんな違ってみんないい」などと言われるようになったが、周囲の大人を見る限り口先ではそんなことを言っていても誰もそんなことは思っていないように思える。他人の子供はどうでもいいが自分の子供がみんなとちょっとでも違っていれば慌てて軌道修正を強いる。だから金太郎飴のようにみんなが同じ顔をしたコピー人間ばかりが出来上がってしまう。しかしそんな人間がやることならロボットやAIにやらせた方がもっと効率的に素早くこなせる。

人間にしかできないこととは興味や情熱に突き動かされて理屈ではないことに邁進してそれを続けていく行動に他ならない。果たして今のお利口さんな大人たちにはそのことがわかっているのだろうか?いや解っていない。

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