腹を括ること

コミニュケーション

覚悟を決めて、自分の責任で何かをやろうとするとそれなりに腹を括らなければならないこともある。「お前に任せるからやってくれ」と言われて「任されたのだから」と覚悟を決めてやってみたら、「勝手なことをするな!」と叱責されて「オレに任せたんじゃないのかよ」と思うことはよくある話だ。

任される方はもとより、”何を”、”どこまで”任せるのか、任せる方もそれなりに腹を括らなければいけない。後になってから「どうしてそういうふうにしちゃったの?」などと言われても、「(任されたから)こっちがいいと思ってやりました」と答えるほかない。任せる方も「これこれこういった方針で進めてほしい」と思うなら最初にそういうべきで、その部分は任せるべきではない。

そもそも「任せる」ということは”自分で決められない”から任せるのであって、自分が決めたいなら「任せる」などと言わなければいいのだ。「こうしてくれ」「ああしてくれ」ときちんと指示をすれば済むことだ。だから任される方も自分が決めてやる以上は腹を括らなければならないが、任せる方はそれ以上に腹を括らなければならない。あとからケチをつけるのはアンフェアというものだ。

政治家も公務員も教師も、腹を括って自分の責任で何かをすることはまずない。必ず最後には属している組織の責任でなければ何もしない。「自分が責任を取ります」などというのは映画やドラマの中の話だ。だから物語の主人公はカッコよくスマートなのだ。言われたことしかやらない平凡な役人や教師など見飽きているからドラマになどならない。

現実の社会で責任を取るのはいつも目に見えない”組織”という怪物である。しかし組織のトップは何かあると「責任を取ります」というが、実際には”辞職すれば”それで「責任を取った」ことになると思っている。「責任をとって切腹します」という人を見たことはない。安倍晋三元総理も「不正があれば自分は国会議員も辞めます」などと威勢の良いことを言っていたが、旗色が悪くなったらダンマリを決め込んで「そのご指摘は当たらない」と訳のわからないことを言い出して途中で逃げ出して辞職すらしなかった。

例えば、他人の命を自分が決めることにはやり直しが効かないだけにかなり重たいプレッシャーがかかってくる。それは自分の親や親族だとしても同じことだ。口に出すか出さないかは別として「(内心は)何をしてでも生きていたい」と思っている人間の処遇を自分が決めなければならないことも出てくる。その人が本当はどう思っているのかを知る術などない。元気な時に「死ぬときはコロッと死にたい」と言っていたとしても、今際の際に(やっぱり死にとぉない)と思っているかどうかなどわからない。だから自分が”一番いい”と思ったやり方で判断するしかないのだ。それも腹を括るということなのだと思う。いずれにしても、他人の生き死にを自分が判断することは精神的に重い。死んだ者は生き返ることができないのだから。

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