誰が聞いても「それはいいことだ」と思うことはある。「誰もが活躍できる社会」「差別のない社会」「誰もが幸せだと感じられる社会」、そんなものが実現したらいいと思いませんか、と訊かれれば誰もが「そりゃいいさ、賛成!」と言うだろう。誰かが活躍できない社会よりもみんなが活躍出来て、誰かが不幸になっても一部の人だけが幸せな社会よりもみんなが幸せになった方がいいし、差別なんてない方がいいに決まっている。誰かを差別することで幸せだと思う人などいるのだろうか。もっとも誰かを差別することで得をしようとする人は少なからず存在する。
こういうのを「理想論」などと言ったりする。最終的な目的としては素晴らしい理念だが”論”ではない。なぜなら理想を実現するための具体性が全くないからだ。論は理論である。筋道を立てて目標を実現するための方法論だ。実現するために何をすればいいのかを示せないのならそれはただの”理想”でしかない。
理想を述べることは簡単だ。都合のいいことだけを言えばいい。それにまつわる不都合なことに一切言及しないなら簡単に実現するように感じる。例えば、いっぱい給料を貰いたいから出世して偉くなりたいと言う。そうだ、なればいい。偉くなれば給料が増える。しかしそのためにはクリアしなければならない課題がいくつもある。まずは今の仕事で成功して実績を残さなければいけない。それで他の同僚よりも高く評価されなければいけない。上司の言うことに素直に従って反抗したりしてはいけない。その上で、仕事で成功するためには何をしなければいけないのかを考えなければいけない。営業なら売り上げのノルマを達成して営業部でトップにならなければいけない。そのためには得意先がたくさん買ってくれなければいけない。ところが買うのは自分ではない。買うかどうかは相手の意思だ。いくら自分が頑張ったからといって買う気のない人には売れない。簡単に言えばそれが最初にある”不都合”だ。
お店の売上を上げなければいけない。そのためにはお客さんにたくさん来てもらわなければいけない。しかし来るかどうかはお客さんの意思だ。「来てください」といくら祈っても来ないものは来ない。それが課題だ。課題を解決するためには解決策が必要になる。それも具体的な解決策だ。何をするか。宣伝をしてみようと思う。どうやって宣伝するか。駅前で駅の利用者にビラを撒いてみようと思う。どんなビラを配るのか。人の眼を惹く魅力的なビラだ。どんな魅力が必要か。誰にとって魅力的なのか。そんなことを一つ一つ考えて解決することで少しずつ前に進んでいく。ただ単に「お客さんがたくさん集まるいいお店にしたい」と宣言するのは簡単だが実現するには具体策が必要なのだ。
総論には具体性がない。理想論ですらないことが多い。理想や目的がなければどちらに向かって走り始めたらいいのかすらわからない。「ちゃんとする」「しっかりする」とほとんどの政治家や役人は大きな声で叫ぶ。しかし何をどうやってちゃんとするのか、誰が何をどうやってしっかりするのかというような、いわゆる5W1Hが語られることがない。
ちゃんとすることやしっかりすることはいいことだ。しかしそこに具体性がなければ絵に描いた餅にすらならない。理想を叫びのはいいが絵ぐらいは”ちゃんと”描かなければダメだ。絵が描けないということは頭の中に何もないのと同じだ。以前、政府の大問題に「私には腹案がある」と言って国民に期待させた総理大臣がいたが結局、最後まで腹案は何も出てこなかった。そういう人は結局のところ”ちゃんと”していない人なのだ。
大きな理想をぶち上げるのは夢のあることだ。しかし夢は形にすることこそが大切である。形にするには綿密な計画とそれに沿った行動をしなければならない。形に出来ないのならそれは、ただの空想でしかない。
コメント