目には目を

コミニュケーション

「目には目を、歯には歯を」は古代バビロニアのハンムラビ法典にある言葉だと言われている。3700年以上前にできた法典だ。現代ではこの言葉を「悪いことをしたら厳罰をもって報いよ」という意味で使われることが多いが元は、犯した罪と同じ罰を与えよという意味で「倍返しだ!」ということを慎めという意味だったとも言われている。その意味では公平性を担保しようとした法だったのかもしれない。

何か失敗をしたり相手に損害を与えてしまったときに「責任を取れ」と言われることがある。ここでいう責任とはなんだろう。不注意で高価な皿を割ってしまったとする。この場合の「責任を取る」こととは何か。それはタイムマシンを使うように、その事故が起きる前の状態に完全に戻して「事故がなかったことにする」ことだろうか。車で人をはねて不幸にして相手を死なせてしまったら、相手を生き返らせて事故など起きなかったことにすることだろうか。

そういう意味では我々は責任を取ることはできない。いやそういう意味だけではない。そもそも責任を取ることなどできないのだ。政治家が大臣に就任してすぐの頃は浮かれ気分で失言を繰り返したりする。「子供のいない夫婦は非生産的だ」などと口を滑らせて大向こうから叩かれたりする。すると翌日には「アレは間違いでした。そんなこと思ったこともありません。責任を取ってこれからは一生懸命取り組みます」などと言ったりする。何度どうやって責任を取ったのだかさっぱりわからない。

そんな発言をする人だから発言通りのことを考えて行動している人間に間違いないし謝って済む問題ではない。それでも永田町をはじめとした政治や行政の世界ではなぜか通用している。
そんなことはどうでもいい。要するに”起きてしまったことをなかったことにする”のが責任を取ることだとするなら、誰も責任を取ることなどできないのだ。起きてしまったことを少しでも償うためにお金を払ったり謝ったりするのは責任を取っているのではない。保険会社が保険を払うように起きてしまったことを別のことにすり替えているだけなのだ。

交通事故で家族を失った人だって加害者に対して「責任を取ってください」と言っても、それで死んだ人が生き返るとは思っていない。幸いにして軽いケガで何ヶ月かして傷口が癒えて見た目が元どおりになったとしても、被害者の事故に遭って痛かった思いやその時の恐怖の経験を取り去ることはできない。毎日お見舞いに来てくれて入院費を払ってくれて損害賠償を払ってくれたとしてもだ。それは自分の犯した失態をすり替えたに過ぎない。

そういう意味では「目には目を」もその範疇を出ない。自分の子供が殺されたからといって相手の子供を殺したところで自分の子供が生き返るわけではない。ことによっては多少溜飲が下がることもあるのかもしれないが、根本的には何も解決されていない。

それでも世の中では毎日、「どう責任を取るおつもりですか?」といったやりとりが繰り返されている。ボクたちはこの現実をどう捉えればいいのだろうか。

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