生き物のドキュメンタリー番組などではそのほとんどが、珍しい生き物や変わった生態を持った生物の行動などで埋め尽くされる。特にそこで紹介される生態の多くは「求愛行動」「交尾行動」「産卵行動」「雄同士の威嚇行動」だったりするが時折は「狩猟行動」などが取り上げられることもある。しかし動物の狩猟行動には生と死、血や肉、死体などの生々しいシーンが出てくるので、主に子供を対象にした番組では紹介されないことも多い。
ボクたち人間も毎日の食事は何らかの他の生き物の命の犠牲の上に成り立っている。菜食主義者と呼ばれる人たちは「私は違う!」と抗議してくるかもしれないが植物だって生き物だ。動物のように赤い血が流れることはないがその”命”と引き換えに我々が生きていることに変わりはない。
ともすれば”生態”という言葉を聞くと普段とは違った”目立った行動”ばかりに目が向くことが多い。しかしそれは動物や植物が暮らしている日常の中のほんの一瞬を切り取ってだけの話で、それ以外のほとんどの時間は餌を食べる、排泄する、寝るといった地味な行動で占められている。だから動物園でも水族館でも普段の動物たちの姿はいたって地味でその姿を見ることは容易だ。昼間の動物園に行けば寝ている動物はごまんといるし珍しくもない。
普通の人にとって珍しくないものは興味の対象になることは少なく有難がられることもない。しかしそんな姿でも”滅多に見られない特別な行動だ”と聞かされるとにわかに人気が出て見物客の長い行列が出来たりする。それほどまでに人は珍しいものや限定品には弱い。昨日までは目もくれなかったものが一夜にして大スターになるのは時折見かける光景だ。いやだからタピオカミルクティーがどうのと言っているわけではない。
日常行動と非日常行動。寝る、食事する、顔を洗う、仕事に行く、学校に行く、トイレに行く、歩く、走るといった平凡な動きはドラマにならない。映画やドラマの題材になるのはいつも恋する、戦う、冒険する、クビになる、自殺するといった非日常だ。だが非日常は日常の上にある。特別な行動だけを切り取ってすべてが分かったように思うのは勘違いでしかない。
ニュースでは”いじめによる自殺”が起きるとあーでもないこーでもないとその原因を特定することにかまびすしい。しかし自殺事件だけを取り上げたところで全体は見えない。それは普段の地味で人目を引くこともない生活の上にたまたま顕在化した非日常なのだ。非日常を観察することはとても地味なことでそれを実行している人は多くない。しかしそんな地味な行動が何かのきっかけで非日常を生み出しているのではないだろうか。漫然と「普段と変わりない行動だから」と見逃してしまっていることがあまりにも多いような気がしている。
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