打算のない生き方

日々是好日

大抵の人は打算と妥協で生きている。当然だがボクもそうだ。どっちが得か、何をすれば有利になるか、いつもそんなことばかり考えている。でも一概にそれが悪いことだとも思わない。打算がなければ何が”いいこと”なのかの判断にも迷うし、できもしないことに夢中になって夢追い人のように歩き続け、やがては夢”老い”人になってしまうかもしれない。

逆に打算なく生きられる人はどういう考え方をするのだろう。打算がないということは「自分が得をしよう」という気持ちは持っていないのだろうか。自分だけが得をするのではなく”誰かが”得をするのならそれでいいと思うのだろうか。誰かが得をしているときに自分が得をしなくてもいいと思うのだろうか。

それは自己犠牲?とはちょっと違うような気もする。自分が犠牲になって誰かに得をさせることを自己犠牲と言うなら、自分の損と誰かの得を交換するようなものだ。損だとか得だとかということをそもそも考えないとしたら、損得の交換などという発想にもならないのだろう。でも人に煩悩がある限り幸せになりたい、お金持ちになりたい、美味しいものを食べたい、異性にモテたい、景色のいいところに旅行に行きたいと思うだろう。

でも打算がなくても煩悩はあるかもしれない。ただその煩悩を満たすために自分だけが良ければいいとは思わないのかもしれない。

誰かが幸せになることを一番に考える。損得をお金だけで考えない。儲けたお金だって使えばなくなってしまうし盗まれたらなくなってしまう。いくら打算で煩悩を満たしたとしても誰かに盗られればおしまいである。でも打算的に生きている人は「また誰かから盗ってくればいいや」と思うのだろう。他人のもの盗んで自分のものにすることで欲求は満足するかもしれないが、モノはいつかはなくなってしまう。

一方で、自分の考え方や信念、価値観は、自分が打ち捨ててしまわなければ誰かに盗られてしまうことはない。誰かから信念や価値観を捨てるように強制されたとしても、自分がそれを捨てることをしなければなくなったりすることはない。ボクには打算や煩悩を捨てることはできないが、自分の信念は安易に曲げてしまうことのないようにしたいと思っている。

それにしても打算のない生き方をしている人はどれくらいいるのだろうか。

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