広告は何を売る?

マーケティング

素敵な広告や小洒落たCMを見ると思わず欲しくなってしまうことがある。大抵はその陰にあるストーリーに心を動かされて「ああいう風になりたい」と思って自分でも欲しくなる。単に可愛いから、お洒落だから、カッコいいから欲しいと思うものでも、なぜ可愛いと思うのか、なぜお洒落だと感じるのか、なぜカッコいいのかと考えてみるとそこには自分なりの物語がある。それはCMに現れる風景や家族像ではないかもしれない。それは自分の暮らしの中にある、またはかつて体験した思い出の中にある物語の再生ボタンが押されたのだ。

広告は幻想を売るものだ。新しい車を買えば楽しい生活が始まるし、家を買えば安定した人生が送れるし、自民党に投票すれば確かな明日が約束されるという”幻想”を買っている。こうなりたいと思う願いがモチベーションになって何かが欲しくなり、購買行動に繋がる。あんなテントがあったら家族でキャンプに行かれるなぁ、青い空、澄み切った空気、川のせせらぎとそよ風に包まれて本を読むなんて、なんてハイソ(古い?)なんだろう。よし、テントを買おう。RVワゴン車を買おう。いや結婚するほうが先だった…。

夢が広がると心が満たされて幸せな気持ちになる。つまり広告は幸せを売っていることになるのだろうか。逆に幸せなストーリーが感じられないいのなら広告としての魅力は半減してしまう。しかし何も幸せばかりでなくてもいい。自分たちを取り巻く社会に対する皮肉でもいいし風刺でもいい。それで愉快な気分になれるのなら軽い批判でもいいわけだ。ただそれを見て気分が悪くなるのはいただけない。いや広告がいただけないのではなくてそう感じてしまう自分の心がいただけない。

昔、ハウスのハッシュドビーフのコマーシャルでキッチンに立ったお母さんが「♪あらこんなところに牛肉が♪」と歌いだす場面があった。それを見た主婦から「あんないい牛肉を買って忘れているなんてうちではありえない」などというやっかみ半分の苦情が山のように寄せられたのだというが、なんとも心が貧しいものであることよ。「うちの冷蔵庫にもステーキのお肉が忘れられて残ってるかもね」くらいにサラリと受け流すくらいの心の余裕を持って欲しいものである。

でも広告のウソがあまりにも限度を過ぎるとやがてそれが本当は”幻想”ではなく”妄想”だということがわかってきて、誰もが広告を信じることができずに政治と政府に”失望”するように広告にも失望してしまう。ウソも笑えるうちが華なのである。

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