変わらないことがいいものと変わった方がいいもの

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人は新しいものが好きだ。日本に観光にやってくる外国人は日本の古い建物や伝統・文化が好きだというけれど彼らの母国に行ってみれば西洋であれ東洋であれ、それが可能であればかつての旧市街とは別に斬新なデザインとハイテクで着飾ったピカピカの建物がたくさん見られる。ただ日本に比べて都市部への人口集中度が少ないので旧市街とは別に新市街を建設できるだけだ。人口の密集する東洋の例を見れば香港や上海、タイのバンコクやベトナムのハノイ、インドネシアのジャカルタなど開発する経済的余裕さえあれば古いものはすべて壊してしまう。壊して新しい街を作ろうとする。東京と同じである。そこでも訪れる観光客は”古いもの”を崇拝するが、今を生きる住人たちにしてみれば古くて不便な街よりも便利で近代的な街に住みたいのである。

身の回りを見渡しても変わらないことがいいものと変わった方がいいものがある。例えば東京。下町と呼ばれる地域には今でも戦後建てられた昭和の街並みがわずかに残っているが、そこから電車で数分間都心に向かえば途端にコンクリートのビルが乱立しており”昔ながらの風情”はない。日本中から東京に集まってくる人たちは競ってタワーマンションを求め高層ビルの大企業に集まる。実際にそこに暮らしている人のほとんどは東京生まれではない。東京生まれの東京育ちは下町の一角でひっそりと暮らすお年寄りばかりになってしまった。

いやそのことが必ずしも悪いと思っているわけではない。新しい街には活気と若さがあり現代の日本を動かす原動力になっている。これが旧態依然とした昭和中期の戦後の街を残そうとしていたら今の発展はなかっただろう。ボク自身もその発展の恩恵にあずかって暮らしているわけだし、やはり不便よりは便利な生活の方が快適だ。それでも身の回りのすべてが新しくなり古くから変わらないものが何一つなくなってしまったらそれはそれで一抹の寂しさを感じるだろう。

人は新しいものが大好きなのと同じくらい変化することが嫌いな側面もある。今住んでいる家から引っ越したくなかったり今の仕事から転職したくなかったり、今やっているやり方を変えたくなかったり今食べているお米やパンのブランドを変えたくなかったりする。もちろん生活に大きな変化を余儀なくされたときにはその時点で最も便利で暮らしやすい形態に変えることはあっても、いったんそれが身についてしまうと容易には変えたがらなくなる。

例えば、いつも買い物に行く近所のスーパーマーケットは変わらない方がいい。店内の陳列ひとつにしてもちょくちょく変わってしまうといつも通りに買い物ができなくなってしまう。いつものものをいつもの場所でいつも通りに買い物できる方が便利で効率的だ。いつも使っている調味料がある日急に店に置かれなくなってしまったらそれに代わる新しい物を探して吟味しなけらばならなくなる。だから店内も品揃えも変わらない方が様子の分かっている店としてお客はリピートしやすい。

ところが服やファッションのお店は時々品ぞろえや内装を変えた方がいい。一度行ったお店の商品や内装や店員が10年間も何も変わらなかったら、もう一度訪ねて行ったとしても退屈なつまらないお店に映るだろう。いつも中身が同じでは1度来た人はもう来なくなる。こういったたまにしか買わないようなものは変化がなければ飽きてしまうし興味も湧かない。だから自動車もスマホも定期的にモデルチェンジしてお客の購買意欲を刺激しようとする。

ところが最近の車に関していえば、メーカーの統合やOEM生産によって異なるメーカーの異なるブランドの車のデザインがほとんど同じだったりする。作っている工場は同じなのにメーカーの異なる車が続々と生産されている。これではかつてのメーカーに対する愛着心は薄れ「どこの車でも同じ」という白けた感覚に支配されてしまう。実際に街を走る車の形は大きく分ければ3~4種類程度の違いでしかない。そんな社会環境に合わせて人間も均一化されてきたのかもしれない。誰もが内心では「他の人と同じがいい」と思っているように。

ボクの育った神奈川県の横須賀市。あの頃、少年時代を過ごした町は大きく変わってしまった。山は大きく削られ形を変え、無くなってしまった山もたくさんある。実家の周りの山などはほとんどが造成されて住宅地になりマンションが乱立している。道路も変わりかつて学校に通った道もなくなってしまった。もはやどこに来たのかわからないほどだ。そんな光景を目の当たりにすると”あの頃”のことがうっすらと懐かしく感じられることもあるが、今のボクはそこに暮らしていない。異邦人が自分の個人的な感情だけで「古いものが懐かしい」と言うのは今そこで暮らしている人たちに無責任にも感じられ、黙ってしまうのだ。

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