価値観の違い

コミニュケーション

価値のないゴミのことをガラクタという。”我楽多”などと当て字が使われることもあり「我楽多市」などというバザーが行われていたりする。そのガラクタの語源って何なのだろう。ネットを検索してみると、ガラガラ(と音を立てる)+芥(あくた)、つまりゴミのことだと書いてあるが、なぜゴミがガラガラと音を音を立てる必然性があるのかの説明もないので信憑性はあまりない。ガラクタ=ガラ+芥(あくた)とはこじつけのような気もする。

今度はガラクタを辞書を引いてみると「値打ちのない品物」とある。それでは、と「値打ち」を調べてみると「その値段にふさわしいと思われる、そのものの役に立つ度合い」と載っている。つまり”払ったお金と比べてどれくらい役に立つのか”で値打ちが決まるということだ。では値打ちって誰が決めるのだろう。”役に立つ”と一言で言ってもそれを持っている人によって役立て方は違ってくる。ある人にとっては”お宝”でも別の人にとっては”ガラクタ”というのは普通のことだ。

趣味で切手や古銭を集めている人がいる。アニメのフィギュアやプラモデルを集めている人もいる。当人にとってはお宝かもしれないが興味のない人にとっては何の値打ちもない。一般に男は、カラスのようにこういったガラクタに興味を持って集めたがる性癖が強い。そしてやがて結婚して妻をめとった時に悲劇が起きる。ある日家に帰ってみると彼の”お宝”が忽然と姿を消している。「ここにあった”お宝”は?」と彼女に尋ねると「お宝?そこにあったゴミなら邪魔だったから捨てといたわよ」とさらりと言う。ゴ、ゴミ?! 突然に訪れた、彼が青春のすべてを費やした”お宝”との永遠の惜別である。

物であれ行動であれ、何かに価値を見出すかどうかは人それぞれ、大袈裟に言えばそれまでを生きた自分の人生の集大成でもある。しかし違う人生を歩んできた他の人にとって何の価値すら見いだせなかったとしても不思議ではない。学生時代に何かのきっかけでアニメが好きになり、ガンダムのプラモデルを集めて宝物のように大切にしている人がいたとしても、アニメ研究会に所属しているオタク同級生を「キモチ悪い」と思っていた人にとってガンダムのプラモデルはアホらしい邪魔なゴミでしかない。念のために言っておくがボクはアニメオタクではないしガンダムのプラモデルも買ったことはない。

同じ男同士でも「何でそんなもの集めてるの?」と思うこともしばしばだ。価値を感じる対象は人によって全く違っていたりする。というよりも似ている方が珍しい。だから同好の士というものがありがたがられて群れるのだろう。価値観が似ているというだけで批判されることは少なくなり”お宝”に理不尽な仕打ちを加えられることもない。

しかし今度は同好の士同士のあくなき戦いが勃発することもある。それは価値観の違いというより「オレの方が凄い!」という自慢をしたいからなのだ。同好者の中でのNo.1争いだ。価値観の違いは”自分とは別の生き物”として無視することができても、同好の士を無視することは難しい。それはとりもなおさず自分自身を否定することになるからだ。そして今日も仁義なき戦いが繰り広げられる。男とはまったくショーモナイ生き物なのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました