街を歩いているとスターバックスなどで買ったコーヒーのカップを手にした女の人としばしばすれ違う。歩きながら飲むのが流行りなのだろうか。かつて昭和の頃に流行った、誰もがテニスラケットを持って歩くようにスタバのカップを持って歩くことがファッションなのだろうか。少なくともボクはうら若き女性がコーヒーカップを持って歩きまわる姿をエレガントだとは感じないし仕事のデキる女性にも見えない。いやだからどうというわけではない。本人がいいと思うのならそれでいいのだろう。
片手にスマホ、反対の手にスタバのカップを持ったらもう使う手は残っていない。バッグを肘に掛け電話などしていると全身がドタバタ状態である。そんな時に何か不測の事態が起きたらどうやって対処するのだろうかと見ているこちらが心配になる。躓いてよろけたらどうするのだろうか、歩道を走る自転車が突っ込んできたらどうするのだろうかなどと自分のことでもないのに考えてしまう。しかし本人は恐らく何も考えていない。そんな状態で歩きながらスマホの画面に熱中しているのだから”用心”や”注意”という言葉とは無縁だ。しかし人生は不測の事態の連続だ。いつどこで何が起きるかはわからない。でもそんな時にはこう言うのだろう。「まさかこんなことになるとは考えたこともありませんでした」と。
室町時代の能楽の大家・観阿弥は「風姿花伝」の中でこう言っている。女性は何かを手にして弱々しく持つとより女性らしく見えるのだと。それがどうしてなのかはわからないが能や歌舞伎の世界では男性が女性を演じる。男性が女性を演じるためには女性よりも女性らしく振舞うことが求められる。そんな経験の中から彼が見つけ出した奥義なのだろう。風姿花伝は観阿弥が主催していた観世派の秘伝とされていたというから門外不出のことだったに違いない。それを現代の女子は無意識のうちに実践しているのだろうか。
二足歩行の人類は手を使って様々なことをこなしている。一説には、手を使うことで脳への刺激が促され他の動物と比較して身体に対する相対的な脳の容積が大きくなったという。それが様々な文化や文明を生み出して発達したといわれている。つまり手を使うことが人間が人間たる所以だともいえなくもない。ところが両方の手をすぐに使いもしないスマホとコーヒーカップで塞いでしまったらもうそれ以上のことはできない。更に何かをするためには最低でもどちらか片方の手は空けておかなければならない。
例えば駅で切符を買おうとお財布を出すためには手に持っているものを一旦どこかに置いてバッグの中からお財布を出す必要がある。更にお財布の中から小銭を取り出す為にはもう片方の手に持っているものもどこかに置いてお財布を持ち、もう片方の手で小銭を取り出さなければならない。その時に手に持ったものを一旦置くスペースがなければどうにもならなくなる。そうした日常に普通に起こりうる不都合さえ想定していないのだろうか。
そんな人たちがこの先どんな人生を送ることになるのかは全く分からないが、せめて大きな失敗で自分の人生を台無しにしてしまうことがないように祈るばかりだ。
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