リベラルアーツ

教育

「リベラルアーツ」という言葉は「リベラル(自由)」と「アーツ(技術・学問)」が組み合わさった言葉だ。古代ギリシャ・ローマ時代の「自由7科(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)」に起源を持っていると言われている。

現代で言えば「教養教育」にあたるのだろうか。大学などでは入学して最初のうちは「一般教養」を学ぶことになっている。専門の教育を受けるのはその後だ。今の日本で教養教育というと専門教育と比較して一段低い教育と考えられがちだ。専門教育を受けるための”基礎”として教養教育を受けることになっている

だがリベラルアーツという言葉を使うときは、今の日本でいう「教養教育」とは別の意味で考えなければいけない。今でいう国語・算数・理科・社会・芸術・医学などの側面から色々な意見を取り込み、自分なりに考えて今進むべき方向を判断するということが「世間の常識」だけに囚われない自由な想像力を生み出すはずだ。つまりその時代を”自由に生きる”ための基本的な学問がリベラルアーツということになる。

専門教育だけを受けてきた人が「役に立つ」とは限らない。自分がやっていることには詳しいが他のことは何も知らないという、偏った人間ができてしまう危惧がある。その一方で現代は、幅広い教養を持っている人が必要とされている。

専門教育に固執するとどうしても”正解を求める考え方”に偏りがちだ。ボクたちは専門教育を受けるずっと以前から学校で一つの正解を求める教育を受けてきた。しかし世の中で1つだけの正解がある問題なんて皆無に近いことは誰もがわかっていることだろう。そして一つの正解を追い求めるより、様々な考え方があるのだという世界を知ることによって多様性を理解することも大切なのだということに気づいている人もいる。

自分が見ている一つの方向から見ているよりも色々な角度から見た方が物事の本質は捕らえやすくなる。そして自分がまだ知らない専門分野以外の事柄を広く知って色々な見方ができるようになると、他人の意見を鵜呑みにしないという習慣も身についてくる。社会的に権威ある人の意見だからといってその人の言っていることが必ずしも正しいとは限らない。

ある面では正しいことも別の角度から見ればふさわしくないことはいくらでもある。他人の考えを鵜呑みにしてすぐに信じてしまうのではなく、常に自分の頭で考え、様々な角度から見たたくさんの意見を吟味して自主的に判断することこそが大切なのだと思う。

専門教育ばかりに執心すると、専門外のことを全く知らない非常識な人間が出来上がる。私立の大学入試などは3科目しかないし、当然だが受験生はそれだけを勉強する。”文系”の学部に行こうと思えば数学や理科のことは知らなくてもいいとされる。一方で”理系”に進もうとすれば社会経済や古典の勉強はする必要がない。だからと言って生きていく上でそれらを知らなくてもいいわけではない。

理系女子、文系男子というような言葉が流行っている。しかし人生を有意義に過ごそうと思えば文系も理系もない。そうやって人間を2種類に分類しようとすることこそ専門教育だけを大切にしてきた教育の貧困な発想から生み出された発想ではないだろうか。一人の人間が生きていく上では理系も文系もない。”常識”というより物事を考える上での根本的な教養が打ち捨てられているのではないだろうか。

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