時々、「奥さんは『家の奥に封じ込められてる人』みたいで嫌だ」とか、「ヨメは『家制度』の名残みたいで嫌だ」なんて話を聞くことがある。ボクはどうかといえば、外では「うちの奥さん」と言っている。特に深い理由はない。
結婚するずっと前に実家を出ていたのでもはや「嫁に来る」という感覚はまったくなかったし、昼間はフルタイムで働いているので家の奥でもっぱら家事をしているわけではない。だからといって誰かに「奥さま」と言われても本人は何も感じていないようだ。それに「うちのダンナ」という時だって、自分の仕えている”旦那様”だなんてこれっぽっちも思っていない。仕えているのはどちらかといえばボクだ。
要するにお互いに呼び方に意味があるとも思っていない。本人がその場にいるとき、結婚前から二人を知っている親しい人にはお互いの旧姓で(ボクは旧姓も同じだが)指すこともある。
漱石の「虞美人草」にこんな一節がある。親しい二人の男の会話だ。
「…雅号なんざどうだって、モノさえたしかなら構わない主義だ」
「そんな確かなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
名前なんてなんだって中身さえしっかりしていれば拘らないという男と、中身なんてみんないい加減だから名前が必要なんだと主張する男の会話である。確かに両方とも説得力がある。配偶者をなんと呼ぶかという話と似ていなくもない。なんと呼ぼうがお互いの関係性が変わるわけではないし、今の時代になんと呼ぼうが心の奥底でどう思っているのかを表してもいない。だからどうでもいい話なのである。
一方で法的な婚姻制度の問題としては「選択的夫婦別姓」ということも議論されている。自民党の政治屋どもの中には老人に限らず「家族制度が崩壊する」と言って頑なに反対している輩もいるらしい。ボク個人としては姓が家族制度とどのように結びつくのか理解できないが、「同じ姓になったほうが『愛されてる』って感じだから、同じほうがいい」という人もいれば、「(慣習的に)男性の姓になってしまうのは差別だ」と主張する人もいる。
かつては学校の卒業生名簿に(旧姓)が書かれることが自慢だという時代もあった。だから「山田(山田)幸子」と書かれていることも多かった。「山田さんという男性と結婚して姓は変わってないけど未婚じゃありませんからね!」ということだったのだろう。今から思えば実にクダラナイと思ってしまうが、それが一大事だという時代がほんの30年ほど前まで実際にあったわけだ。
「日本の家族制度」というのはとりも直さず戦前の民法にあった「家制度」のことを指しているのではないかと勘ぐってしまう。妻には家のことを決める一切の権利がなく、すべては「戸主」にお願いして許可してもらう必要があった時代だ。いろいろな家庭があるので一概にはいえないが、現在は法律的に同じ権利が与えられているし、ボクはそんな封建的な家庭を見たことがない。
家族制度だって人それぞれである。もちろん法律に反することは許されることではないが、「一生あなたについていきます」という女性がいたっていいし、「お互い、好きなようにやろうぜ」という夫婦がいたっていいと思う。そんなことは「カラスの勝手でしょ!」てなもんだ。好きにすればいいと思う。「”選択的”夫婦別姓」なんだから自分で選べばいいだけだ。日本はそんな自由も許さないのだろうか。
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