最近ではテレビを見る人が減っているという。特に若者の間ではテレビよりもネット動画が主流になってきていて、全年代で見ればまだテレビの方がネットの1.5倍くらいの割合で多いのだが、逆に20代などではネットの方がテレビの1.4倍くらいと多くなって完全に逆転している。それはそうだ。近年になってネットのコンテンツは物凄い勢いで充実してきた一方で、テレビ番組は旧態依然というよりも劣化している印象が否めない。その上、テレビはリアルタイムで見られる時間が限定され、見る場所も限られている。その点ネット動画は自分が見たいときにいつでも番組の最初から観られるのだから。
ボクらが子供の頃には夕方になると子供向けのTVマンガ番組が始まるので、それまで草野球などしていた子供も一斉に家に帰ってテレビを観たものだった。生活のスケジュールがテレビの番組に縛られていた。しかし今では会社の昼休みだろうが通勤電車の中だろうが学校の休み時間だろうが関係なく好きな動画を見ることができるのだから、あえてテレビにこだわる必要なし、と思うのも当然だ。それに子供の頃、家にテレビが一台しかなかった頃には親から「もうテレビは終わりっ!」と怒られた経験は誰にでもあったはずだ。スマホならいつでもどこでも隠れてでも常に見ていられる。
テレビもネット動画も同じなのは、子供にとって番組を見る(情報を得る)ために支払う対価がゼロだという点だ。NHKを別にすればテレビを見るのにお金はかからない。もっとも家のテレビの受信料をお小遣いから払っている子供は少ないしNHKばかりを見る子供も少ないだろう。ネット動画も同様だ。スマホの通信料などの多くは親が負担しているから子供から見ればタダである。気になるのは”ギガ”だけだ。
タダでいくらでも見られるのなら「見なきゃ損」と思うのは大人も子供も同じである。別に見なくてもいい動画でもつい何となく見ている。テレビ全盛の時代でも同じようなことはあった。見てもいないテレビを”何となく”点けておくのだ。特に見ているわけでもないくせにテレビが点いていないと落ち着かないというテレビ中毒人まで現れた。今では同じようにネット中毒患者で溢れている。無駄に動画やSNSを眺めている。
あの頃より悪いのは、テレビは家にいるときにしか見られなかったが(ワンセグが流行った時期もあったが)ネット動画はのべつ幕なしに見られる。時間があれば、いや時間がなくても歩きながらでも動画を見続ける。「一億総白痴化」とは 社会評論家の大宅壮一がかつて世に放った言葉だ。今の時代に”白痴”という言葉は差別用語として禁句となったが、こんな状況を一番よく表している言葉だと思ってあえて使わせていただく。
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。
『週刊東京』1957年2月2日号 大宅壮一「言いたい放題」より
何の考えもなく垂れ流される動画を見続けることが人間にどれほどの影響を与えるのか。テレビを見ることやネット動画を見ることは単なるインプットでしかない。インプットは自分が何も考えなくてもできる消極的なことだ。これは本を読むことでも同じである。ただ本を読み漁っているだけでは頭に浮かび上がってくる想いはない。
本を読み、テレビやネット動画を見て、その上でその内容を理解し咀嚼して自分なりの思いを巡らせて考え、外に向かって発信することがアウトプットだ。自分が自ら考えるという積極的な行動なくしてアウトプットはできない。
テレビ時代から変わっていないのは、人が積極的に行動することを面倒くさがるという習慣だ。ダラダラとテレビを見、ダラダラとネット動画を見、ダラダラと新聞を読んでも自分の頭で考えることはしない。頭を働かせて考えることをしなければ人の脳は退化していく。”考えられない頭”を首の上に乗っけて”ボーッと生きている”だけだ。
中高年が今更何を見続けようがもう未来がないので関係はない。しかしこのままでは今まで以上に何も考えられない若者が増えていくのではないかと危惧している。何も考えられないと人生の楽しみも何も見つけられない。それを心配している。
かつて脚本家の倉本聰さんがご自身のエッセイに書いていた。とある放送局の大物プロデューサーに「文化の日」にふさわしい企画はないかと問われ、こう答えたという。
丸一日、テレビ放送をやめてみたらいかがですか?
『テレビのない日』、これぞ文化です!見識です!
当時の倉本さんと同じ世代になってみて、やっとその本当の意味がわかってきた。
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