昨日までの「平成」が終わり、今日から「令和」という新しい時代が始まりました。昭和から平成になった時にはお正月早々に天皇陛下の崩御があり、バタバタした中でいきなり始まった感がありましたから、今回の落ち着いたスタートはなんとも余裕を感じられるものに思えます。元号が変わったからといって私たちの暮らしが劇的に変わるものではありませんが、せっかく与えられた一つの区切りなのですから、少しでも前向きにとらえて自分をいい方向に変えてゆく きっかけの一つにしたいものです。
先日、「サバイバル・ファミリー」という2年ほど前の映画を観る機会がありました。最近流行りの動画配信サービスだったのですが、そんな映画があることすら知りませんでした。物語はある日突然、すべての電気製品や電子機器が使えなくなってしまうという原因不明の出来事から始まります。明かりは灯かず懐中電灯も使えません。スマホはおろかテレビもラジオもスイッチが入らず、電話すらウンともスンとも言わなくなります。かろうじてカセットコンロは使えますが、電池で動くものまで全く使い物にならない事態です。
実のところ、世界がいきなりそんな事態遭遇したら現代人には何ができるんだろうなぁと私も想像することがよくあります。テレビが見られない、パソコンが使えない、スマホが使えない、電気がつかない、今の家はガスも電気で制御していたりすることが多いのでガスも使えない。するとお湯も沸かせない、お風呂にも入れないくらいは想定の範囲内でしたが、テレビもラジオもないということは天気予報もわからないし、自分で直接見られるところ以外のことはまったくわからないということに気づきました。
自分が住んでいる地域のことはわかっても、東京の人が大阪で何が起きているのかをすぐに知ることは出来なくなるわけです。ちょっと考えれば当たり前のことですがこれは想定外でした。普段なら電車の運行状況や交通情報など、耳に入ってきて当たり前だと思っていることがすべて遮断されてしまうというわけです。
電車もバスもタクシーも動かず、移動手段は徒歩か自転車だけになります。パソコンも電話もFAXも物流も使えませんから、会社に行っても全く仕事になりません。その映画のストーリーはさておき、そんな中での現代人の行動を考えさせられるいい機会になりました。
今、欧米では生徒にデジタル機器を全く使わせないという学校に人気が集まっているのだといいます。それもマイクロソフトやアマゾンなどの巨大IT企業に勤めている親に人気があるらしいのです。自分たちの子供がデジタル機器に頼った生活ばかりしていると、自分で考える能力が衰えてしまうからだといいます。社会に広くITサービスを提供している先端企業の社員がそう考えているというのですから面白いものです。
確かに今では、わからないことがあればすぐにインターネットで検索して答えを知ることができますし、家から一歩も出ることなく買い物を完了させることもできます。人と会うことも電話で話すこともなく、いくらでも知り合い(あえて友人とは言いません)を増やすこともでき、それで恋愛をしているという人もいます。最近ではVR(仮想現実)の技術を使って家にいながら友達同士がネット上で集まって一緒にドライブに行かれるような研究開発もされているといいます。
足腰が弱くなったり障害があって自由に外出することが困難な人にとっては有効な選択肢になりますが、歩くことも話すことも問題なくできる人までが、このような仕組みに頼りたくなってしまうのはどうなんだろうなぁとちょっと不安になるのです。
かつては会って話すことで意思の疎通ができていました。それが電話になり、メールになり、SNSになるにしたがって、時間の制約から解放されて自由で便利な世の中になりました。
しかし不必要なまでに生活を便利にしてしまい、それを使うことが当たり前になってしまった時、人間の基本的な”生きる力”が衰えていくような気がするのです。冒頭にお話しした映画がそんな時代に一石を投じているような気がしたのは、私の思い過ごしでしょうか。
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